はじまりはひとつの訂正依頼
午前十時。蒸し暑い夏の朝、事務所の扉が音もなく開いた。手に古びた書類を抱えた女性が立っていた。無表情で、何かを飲み込んでいるような目をしていた。
「登記内容が間違ってるんです。これ、訂正できますか?」
そう言って差し出されたのは、戦後すぐの時期に作成されたと思しき古い権利証だった。紙の端がやや焦げていて、墨文字が微かに滲んでいた。
依頼人は無口な女性
必要事項を尋ねても彼女は要点しか話さない。口数が少ないというより、感情を閉じ込めているようだった。あえて深く聞かず、コピーを取り、元の書類を返す。
「調べてみます。少し時間をください」
彼女は軽く頷くと、まるで風のように静かに出ていった。サトウさんは、無表情な彼女を「昭和の探偵ドラマに出てきそう」と呟いた。
古びた権利証に残された謎の番号
その権利証の右下に、通常とは異なる形式の数字が記載されていた。昭和二十三年、仮登記として提出されたが、なぜか抹消されていない。
「変ですね、これが正規の所有権じゃないなら、もう一つの登記簿が必要になります」
サトウさんが、パチパチとキーボードを叩いて登記情報を検索し始めた。彼女の目が一瞬鋭くなる。僕のミスではなさそうだ。だが、何かおかしい。
二重登記が語るもの
調べていくうちに、同じ地番、同じ住所に、ふたつの登記簿が存在していることが判明した。一方は依頼人の名前、もう一方は数年前に亡くなった男性の名義。
「二重登記、ですね……意図的か偶然か」
やれやれ、、、またややこしい仕事が舞い込んできた。こういうときに限って冷房のリモコンが見つからないのだ。
住所は同じなのに登記簿がふたつ
「昔の仮登記が原因かもしれません」とサトウさんが言う。通常、仮登記は本登記を前提にした一時的な記録だ。だがこのケースは違う。
「仮登記のままでも効力が残ることがある」と彼女は言った。「特に、昭和の混乱期にはね」
そう、まるで『キャッツアイ』のアジトのように、表と裏が共存しているような構造だ。
昔の登記と現在の謎の整合性
ふたつの登記内容を照らし合わせると、わざと重ねられた形跡がある。しかも所有者欄には、ほぼ同じ筆跡で異なる名前が記載されている。
「これ、同一人物じゃないですか?」サトウさんが言う。
「恋人の名義を使って家を買ったとか……」僕はぼんやりと推理するが、彼女は鼻で笑った。「そんなロマン、登記には残らないですよ」
恋心と登記の矛盾
古い公図を広げると、赤鉛筆で引かれた線が家屋の外周を囲んでいた。これは、申請人が当時手書きで提出した図面だ。
「この線、妙に内側に引いてあるな」
昭和二十三年の登記簿には『本件土地の一部につき仮登記』とあった。部分所有か、それとも単なる記載ミスか。
サトウさんの冷静な分析
「依頼人は、その仮登記が消えていないことに気づいたんでしょうね」
「まさか、登記が恋の証だったとか?」と僕が茶化すと、サトウさんは無言でスキャン画像を差し出した。
そこには、亡くなった男性の署名があり、同じ筆跡で依頼人の名前も別欄に記載されていた。二人の署名が同じ人間のものだったのだ。
ぼくの失敗が導いたヒント
以前、別件の登記で誤って旧字体を使ってしまったことがある。それを指摘したのがサトウさんだった。
今回の登記簿にも、旧字体が多用されていた。これは古い時代の表現なのではなく、「過去の自分を演じた」痕跡ではないか。
つまり、依頼人はふたつの人格を演じ、ふたつの名義を意図的に使い分けた可能性がある。
やれやれと嘆いた昼下がり
真相は明らかだったが、証拠に乏しい。登記官に修正申請を出すとしても、なぜふたつの名義が存在するのか合理的な説明が必要だ。
それにしても、ふたつの名前、ふたつの所有、ふたつの恋。何もかもが重なり合っている。
やれやれ、、、司法書士ってのは、こういうラブレターのような登記簿と向き合う仕事だったっけか。
役所から届いた意外な通知
数日後、役所から文書が届いた。「昭和二十三年当時の仮登記は、申請人本人による虚偽申請の疑いあり」との記載がある。
「虚偽」か。確かに事実ではないかもしれないが、それは嘘というより「願望」だったのではないか。
依頼人が所有したかったのは、土地じゃなくて、過去そのものだったのかもしれない。
重ねられた記録と重ねられた想い
記録には記載されていない感情がある。それが今回は仮登記というかたちで残ってしまっただけだ。
たぶん、もう彼女は来ない。訂正のことなど、最初からどうでもよかったのかもしれない。
でも僕ら司法書士は、どんな理由があれ記録を正すのが役目だ。
戦後すぐの仮登記の存在
公図の奥に貼り付けられていた紙切れには、依頼人が昔通っていた女学校の校章が押されていた。
それが何を意味するのか、今となっては確かめようもない。ただ、そこには彼女の過去と誰かへの想いが詰まっているように思えた。
「こういうの、ちゃんと映画化したら泣けるのにな」と僕が言うと、サトウさんはまた鼻で笑った。
ふたつの名前とひとつの所有権
結局、訂正はできなかった。なぜなら、どちらの名義も同一人物であり、同時に他人でもあったからだ。
法の世界では矛盾するが、人生ってそういうもんだ。法律が追いつけない気持ちが、世の中にはいくつもある。
今回の事件も、登記簿という枠では捉えきれない「片思い」だったのだろう。
登記ミスではなく故意の仕掛け
もしかしたら、依頼人は誰かに読まれることを想定して、あえて登記簿を残したのかもしれない。
記録とは、読まれることで意味を持つ。ぼくたちは、その声なき声を読む読者でもあるのだ。
「司法書士探偵団、って感じですね」とサトウさんがぼそりと呟いた。意外と悪くない響きだ。
事件は解決していないけれど
あの女性が再び訪ねてくることはなかった。訂正申請も破棄されたまま、棚の奥に眠っている。
けれど、僕の中では一つの事件が終わった。名前の下に潜む想いを、少しだけ理解できたような気がする。
「やれやれ、、、次は名寄帳の精査か。恋の記録より手強いかもな」
今日もまた登記簿と向き合う午後
午後の陽が差し込む事務所。扇風機が不規則に回り、書類の角をペラリとめくる。サトウさんはコーヒーを入れてくれたが、言葉はない。
でも、それがちょうどいい。名義も心も、簡単には一つに定まらないのが人間というものだ。
僕は今日もまた、登記簿と向き合う。ひとつ、またひとつ、過去と向き合いながら。