朝一番の電話
「名義変更の相談をしたいんですが……」
朝の8時55分、いつもならFAX用紙と格闘している時間に、一本の電話が鳴った。女性の声は妙に沈んでいて、言葉の選び方がぎこちなかった。
僕は思わず受話器を耳から離しそうになった。月曜の朝から厄介な案件の匂いがする。
無言の女性からの依頼
名乗りもせず、住所も言わず。ただ、「旧姓のままで名義を戻したい」とだけ告げた。
通常、登記の名義変更にははっきりした理由が必要だ。しかも旧姓とは、つまりは離婚か死亡か。本人確認ができなければ、そもそも依頼として成立しない。
「…とりあえず、事務所に来てもらわないと話が進みませんね」とだけ伝えた。
旧姓での登記変更希望
サトウさんがそばでこっそりメモを取りながら、「怪しいですね」と小声でつぶやいた。
僕は曖昧に笑ってごまかしたが、胸の奥では何かが引っかかっていた。旧姓に執着する依頼人。だが名乗らない。これはただの名義変更ではなさそうだ。
そして思った。やれやれ、、、また厄介な話の始まりだ。
依頼人の素性
翌日、彼女は現れた。マスクを外さず、目も合わせない。提出された委任状には「佐伯美佳」と書かれていた。
だがこの名前にはどこか既視感があった。記憶の底をつつくような、そんな感覚。
事務所の空気が一瞬、ぴんと張り詰めた。
名乗らない理由
「現在の氏名は事情があって名乗れません。でも、旧姓の名義に戻したいんです」
理由を聞いても、「とにかくそうしないと困る」と繰り返すばかり。戸籍を取るにも本人確認が必要だが、それすら渋る始末。
何かを隠しているのは明白だった。けれど、それが何なのかはまだ霧の中だった。
戸籍に残る謎の足跡
調べてみると、「佐伯美佳」の戸籍は移転を繰り返し、今は所在不明になっていた。
死亡届は出されていないが、5年前に旧姓に戻って以来、表向きの記録が途絶えている。
まるで誰かが彼女を“消した”ようだった。
サトウさんの直感
「この委任状、筆跡が不自然です」
サトウさんがコピーを机に広げた。僕が見ても、どこが?と思ったが、彼女は続けた。
「たぶん、筆圧が変。途中から人が書いてます」
違和感だらけの委任状
もう一度目を凝らして見る。たしかに「佐伯」と「美佳」の部分で筆圧と角度が違う。
委任状を本人が書いたとは言い切れない。もしこれが偽造なら、依頼そのものが虚偽。
背筋に冷たいものが走った。これは事件だ。
筆跡が意味するもの
筆跡は人間の無意識が出る。だから変化には理由がある。
「後半部分だけ、別の人間の意図が混じっている可能性がありますね」とサトウさん。
うーむ、こっちは野球部で鍛えた直感しかないのが悔しい。
役所への照会
役所に照会をかけると、旧姓の名義が最近動いていたことがわかった。
何年も前に閉鎖された土地の名義が、突如として法務局にアクセスされていたのだ。
しかもアクセス者は別名義の男性。どういうことだ?
旧姓の名義が動いていた
名義が動くには法的手続きが必要だ。ということは、誰かが彼女になりすましている可能性がある。
本物の「佐伯美佳」はどこへ消えたのか。あるいは……今目の前にいる彼女こそ偽物か。
謎が一気に深まっていく。
死亡届が出されていない不思議
この手のケース、死亡していれば登記変更は法定相続になる。でも、それがされていない。
つまり、彼女は生きていて、誰かに“使われている”。
司法書士の仕事の範疇を超えている気もするが、もうここまで来ると放っておけなかった。
旧姓の呪縛
「旧姓に戻すことでしか逃れられない人間関係があるんです」と彼女は言った。
その目には、哀しみとも後悔ともつかない色が宿っていた。
だが、僕はその言葉の裏に、何か違う動機を感じていた。
DVと偽名利用の可能性
過去に夫からの暴力を受けていたという情報が、ようやく出てきた。
彼女は逃げるように旧姓に戻り、別の土地で生活を再開したのだという。
その過程で、他人の名義を使うようになったのだと。
二重生活の痕跡
彼女は今、別名で婚姻状態にあり、子どももいる。
だが、旧姓の土地名義が必要になったのは、夫にバレずに生活費を得るためだった。
そのために、旧姓で登記を復活させようとしたのだ。
訪ねた古い家
現地確認のため、彼女がかつて住んでいた家を訪れた。
だが、表札の名前は「佐伯」ではなかった。しかも住人はもう10年前に引っ越したという。
不審に思った僕は、隣人に話を聞いてみることにした。
表札と一致しない記録
登記記録と現地情報がまるで一致しない。ここまで来ると、司法書士というより探偵だ。
いや、むしろ名探偵コナンばりに推理しないと解けない話かもしれない。
サトウさんは「毛利小五郎にしては冴えてますね」と言った。やれやれ、、、。
隣人の証言に出てきた本名
隣人の話では、かつてこの家に住んでいた女性は「ミカ」ではなく「ミユキ」だった。
そして、数年前に警察が来たことがあったとも。
記録と現実の間に、大きなズレがあった。
思いがけぬ再会
そして、法務局で登記履歴の確認中、「佐伯美佳」の筆跡と一致する別人の資料を見つけた。
それは、3年前に僕が担当したとある遺産分割の案件で出てきた名前だった。
彼女は過去に別の家族を“演じていた”ことが判明したのだ。
過去の事件とつながる名前
彼女は、過去に失踪事件として扱われた女性と同一人物だった。
彼女は戸籍と名義を切り替えながら、過去から逃れようとしていた。
でも、それが罪にならないとは限らない。
婚姻届の裏に書かれたメモ
最後の証拠は、婚姻届のコピー裏に書かれていた“逃げろ”というメモだった。
それは、彼女が自分自身に向けて書いたものかもしれない。
「旧姓は呪縛じゃない、逃げ道だった」と彼女は言った。
崩れる虚構
最終的に、彼女はすべてを打ち明けた。
「名前を変えても、過去は消せなかった。でも、せめて子どもには知られたくなかった」
司法書士としての限界を感じながらも、僕は記録を整え、正当な手続きに戻した。
偽装離婚の真実
すべては、偽装離婚から始まっていた。暴力から逃れるための、ギリギリの選択だった。
それでも、法を越えるものはない。感情と法律の間で、彼女は揺れ続けていたのだ。
その姿は、妙に人間くさくて、どこか悲しかった。
本当の被害者は誰だったのか
登記簿に名前が残るのが、本当の“所有者”なのだろうか。
法的にはそうかもしれない。でも、心の中で名義を背負い続けることの方が、よほど重い。
それを理解してあげられるのが、司法書士の役目かもしれない。
シンドウの逆転劇
「やれやれ、、、俺の仕事じゃなかったかもな」
でも、最後の最後で名義を正しく整えたのは、自分だった。紙一枚の重さを知っているから。
僕は彼女の戸籍と名義を再整理し、正当な依頼として完了させた。
真の名義人を突き止める
法務局から出てきた時、空はどこまでも晴れていた。
サトウさんが言った。「本物の人間にしか、本物の名前は戻らないんですよ」
少しだけ、彼女が優しく見えた気がした。
事件の後日談
あれから一ヶ月後、彼女から一通の手紙が届いた。
「新しい土地で、旧姓のまま、やり直してみます」とだけ書かれていた。
差出人欄には、達筆で「佐伯美佳」とだけ。
本名で生き直すということ
名前とは、ただのラベルじゃない。生き様そのものだ。
逃げるための旧姓ではなく、歩むための本名として。
僕は手紙をそっと引き出しにしまった。
サトウさんの冷たいひとこと
「どうせまた、面倒なのに首突っ込むんでしょ」
「……いや、今回はたまたまだよ」と笑ったら、彼女は一言。
「野球部のクセに、甘いんですよ」