忘れられた委任状
六月の終わり、湿った空気とともに古びた事務所のドアが音を立てて開いた。シワの目立つスーツを着た中年男性が、まるで用事を忘れかけたような足取りで入ってきた。手には封筒、顔には不安の色。
「あの、先週渡した委任状、届いてますよね?」男の声は震えていた。
午後一時の訪問者
時刻は午後一時。私は昼飯のコンビニおにぎりを片手に、電子申請の進捗を確認していた。そこへ男が突然やってきたのだ。正直、覚えがなかった。名前を聞いても、ピンとこない。
「すみませんが……どなたの件で?」と尋ねると、彼は少し驚いたように「先週、不動産の名義変更を依頼した者ですが」と言った。
預かったはずの委任状
私は記録を確認するため、ファイルボックスを漁った。しかし、その男の名が書かれた依頼記録は存在しなかった。封筒も見つからない。預かった覚えもなければ、書類も見当たらない。
「委任状を渡した場所はここですか?」とサトウさんが尋ねた。男は少しうろたえた様子で、「ええ……確かにこの建物だったと思うのですが」と答えた。
サトウさんの塩対応
「勘違いされてるのでは?委任状は法的に非常に重要な書面です。そんな記憶違いで処理するほど軽いものではありません」とサトウさんはぴしゃりと言い放った。
冷たい口調だが、彼女の言うことは正しい。私は苦笑しながら、「まあまあ」と宥めたが、内心は混乱していた。
被代理人の失踪
「実は……代理人の田所が、先週から音信不通でして」と男が口を開いた瞬間、事態が妙な方向へ転がり出した。代理人が行方不明、という話はよく聞くが、委任状と一緒となると、ただの紛失では済まない。
「あの田所?確か……元詐欺グループのメンバーだって噂があったな」と私は思わず口に出してしまった。
依頼人は誰だったのか
「失礼ですが、あなた、本当にご本人ですか?」サトウさんが鋭く切り込んだ。男は一瞬ぎょっとしたが、「私の名義で間違いありません」と主張した。
登記簿を確認すると、確かに男の名前があった。しかし、本人確認書類のコピーは提出されていなかった。そこに違和感があった。
不完全な登記申請
「やれやれ、、、」私は書類棚から紙の登記申請書を取り出してため息をついた。電子化の時代でも、紙の申請は時に謎を暴く鍵になる。
未提出の欄がある。特に、代理権の確認資料が全て空欄になっていたのだ。それはつまり、誰も代理権を証明できないまま、登記だけが走ろうとしていたということになる。
判子の不在と不信感
「ところで、ご印鑑はお持ちですか?」と尋ねると、男は胸元をまさぐったが、結局何も出てこなかった。「ああ、今日は持ってきていません」と彼は言った。
それが決定打だった。依頼に来る人間が、印鑑を持たずに登記の話をしに来るわけがない。これは何かおかしい。何かが偽られている。
サザエさんと怪盗キッドと委任状
「これ、サザエさんだったら家に置いてきたとか言って終わるんですけどね」と私が冗談を言うと、「むしろこれは怪盗キッドの手口ですね」とサトウさんが返した。
「偽の依頼人、偽の書類、そして本物の不動産を狙うトリック……まるで舞台のようです」と彼女は呟いた。
意思表示の断絶
調査の結果、委任状は存在しないことが分かり、田所という代理人も偽名であったことが判明した。つまりこの依頼人自体が、誰かのなりすましだったのだ。
依頼人のふりをした男は、本人から意思表示を得ていない。代理権の根本が断絶されていた。それはつまり、全ての手続きが無効であるということだ。
証明情報に潜む罠
「代理権の証明がないなら、登記原因証明情報も全て疑わしいですね」とサトウさんが言った。私はもう一度ファイルをめくり、ようやく気づいた。
そこには過去に別件で使われた同じ筆跡の文書が混じっていた。別件の証明情報を切り貼りし、偽造したものだった。
うっかり司法書士の逆転劇
私はうっかり者だ。だがその分、過去の案件はすべて頭に残っている。該当の案件を思い出し、登記官に通報すると、すぐにその男は取り押さえられた。
代理権の断絶を利用した新手の不動産詐欺。まさかこんな形で来るとは思わなかった。
サトウさんの推理は止まらない
「シンドウさん、次は委任状そのものを預かる時点で、代理人ではなく依頼人本人を呼ぶべきです」と彼女は言った。正論すぎて言い返せない。
「やれやれ、、、」と私は肩をすくめ、冷めたコーヒーを口に含んだ。
誰が委任を偽ったのか
その後の調査で、田所という名前を使っていたのは、不動産会社を装った詐欺グループの一員であることが分かった。本物の所有者は、数日前に亡くなっていた。
つまり委任状を出せる人間は、最初から存在しなかったのだ。意思表示自体が断絶されていた。
断絶された意志の正体
代理権の断絶は法的な死であり、意思の終焉でもある。だが、それを利用して悪事を働く者がいる限り、我々司法書士が目を光らせなければならない。
事務所に静けさが戻った。だが、ファイルの山はまだ終わらない。
依頼人の行方と静かな結末
事件は終わった。だが私は、自分の記憶の曖昧さに少しだけ落ち込んだ。サトウさんにもう一度だけ謝ったが、「まあ、気づいたのはシンドウさんですから」と彼女が言った。
その一言に救われた気がして、私はようやく座り直した。「さて、次はどんな“うっかり”が待ってることやら」私は独りごちた。