依頼人は語らず
無言の訪問者と一枚のメモ
その日、僕の事務所の扉をノックしたのは、帽子を目深にかぶった中年男性だった。会釈だけして、なにも言わずに一枚の紙を差し出してきた。古びた登記事項証明書で、そこには「赤い家」と呼ばれる物件の名義が記されていた。
「これは……?」と聞いても男は口を開かず、数秒後にはそそくさと立ち去ってしまった。ただ、証明書の裏に小さな字で「この家は嘘をついている」とだけ書かれていた。
やれやれ、、、また妙な案件だな、と僕はため息をついた。
手続きよりも先に気になる違和感
依頼も内容も不明、報酬も出るか分からない。普通なら断るところだが、紙に記された地番を見て、なぜか心がざわついた。妙に既視感のある文字列だったのだ。
地図で調べてみると、その住所には確かに建物がある。しかし、空撮写真ではそれが赤いかどうかは分からないし、そもそも存在感が薄い。
なんとなく放っておけない、そんな物件だった。
赤い家の存在
登記簿に記された不審な物件
登記簿には、五年前にとある個人が取得し、三年前に譲渡されたとある。しかし、不動産譲渡税や所有権移転登記の記録が一部欠けていた。補正の痕跡もない。
名義人の住所は東京都内になっていたが、既に転出済。これは放置されていた案件か、それとも意図的な偽装か。
なにより、謄本の余白に貼られていた付箋には、誰かの筆跡で「立ち入るな」と書かれていた。
街の記憶に残らない謎の住所
実際にその地番を訪ねてみた。市街地から少し離れた、杉林の中にぽつんと家があった。赤い屋根、赤い外壁、確かに「赤い家」だった。
だが、不思議なのは近隣の住民だ。「そんな家あったかな?」とみな首をかしげる。毎朝の犬の散歩道にも関わらず、誰も覚えていないという。
サザエさんで言えば、カツオが誰にも見えない魚を釣ったと言い張るような、そんな不条理さだった。
元所有者の謎
死者の名義が更新されていた理由
法務局で過去の所有者の情報を洗う。すると、驚くべきことに、三年前に死亡しているはずの人物が、亡くなった一年後に名義を変更していた。
司法書士の自分が言うのも変だが、死者が登記手続きを行うことは不可能だ。代理人も設定されていない。
これは明らかに、何者かが意図的に情報を操作している。
住民票が指し示す不可解な接続
元所有者の住民票を辿ると、同居人の欄に一人だけ名が残されていた。「サキ」という女性、年齢不詳。転出記録も転入記録も曖昧だった。
しかも彼女の名義で、別の土地が登記されている。その場所は奇しくも、過去に僕が担当した相続放棄の案件と一致していた。
思いがけない繋がりに、背筋が寒くなる。
事件の発火点
過去の境界争いが再燃する
赤い家の裏手で、地元の地主同士が境界を巡って揉めていたという記録が出てきた。古い測量図には、赤い家は存在していない。
つまり、家そのものが後から勝手に建てられた可能性がある。だが、登記はある。これはどういうことか。
違法建築か、それとも別の名義のなりすましか。
法務局職員が残した不穏な言葉
調査中、古い知り合いの法務局職員から内密に連絡が入った。「あの家、登記が逆に利用された可能性がある」と彼は言った。
さらに、「あそこに関わると皆、おかしくなる」と意味深な忠告までつけ加えられた。明らかに恐れている様子だった。
もはや単なる書類上の問題ではない。
サトウさんの洞察
他人名義の登記情報に潜む矛盾
事務所に戻り、調査内容をサトウさんに伝えると、パソコンの画面から一度も目を離さずに言った。「その譲渡、譲渡契約日と登記日が逆ですよ」
確かに、通常ならありえない順番になっていた。譲渡日より先に登記がされていたのだ。
つまり誰かが、未来の譲渡を既成事実にしたということになる。
名義変更のタイミングとある判決文
さらにサトウさんは、過去の判例を持ち出してきた。所有権の取得時効に関するものだった。実効支配を十年続けていれば、登記がなくとも所有権が認められることがある。
赤い家は、誰かが十年以上住んでいたのだろうか。だが、誰も見ていない家で、誰が?
彼女はパソコンを閉じ、「これはきっと名義だけの亡霊ですよ」とつぶやいた。
赤い家の内部で
施錠されたままの地下室
管理会社の許可を得て赤い家に足を踏み入れると、そこは意外にも整頓されていた。昭和中期の家具がそのまま残り、埃だけが降り積もっている。
気になるのは床下の蓋。南京錠で厳重に閉じられ、明らかに何かを隠しているようだった。
バールでこじ開けると、そこには地下室が広がっていた。
廃屋に残された一冊の帳簿
地下には古い金庫と、一冊の帳簿があった。昭和30年代から平成にかけての収支が記録されており、明らかに不正な金の流れが記されていた。
しかも帳簿の裏表紙には、「司法書士Kに感謝を」と記されていた。K……誰だ? 過去の同業者だろうか。
この家は、資金洗浄と所有権偽装の拠点だったのかもしれない。
真実との照合
登記記録と家の歴史のズレ
過去の登記と帳簿を照らし合わせると、所有権の譲渡と収支記録が見事に一致していた。つまり帳簿は真正である可能性が高い。
しかし、それは同時に、登記簿が意図的に操作されていたことを意味する。死者を使い、偽名を使い、全てを帳尻合わせしていた。
まるで探偵漫画のような複雑な構図だった。
名義貸しと隠された資産移転
全ての名義がダミーであり、実態のない「名義人」が連鎖していた。そして、最後に浮上したのは、僕の事務所の前に現れたあの男だった。
彼の身元は不明だが、帳簿の一番最後に、彼と同じ筆跡で「終わり」と書かれていた。
まるで舞台を片付けた役者のように。
シンドウの推理
名義の遡りと共有者の謎
不動産の所有者とは、単に名前が記載されている者ではない。実際に「支配」している者こそが、真の所有者だ。
この赤い家の正体は、亡霊のような所有権の連鎖によって生まれた、紙の上の幻だったのだろう。
そして、誰かが最後にそれを燃やした。証明書を持ってきた男が。
鍵となるのは古い境界線の記憶
最後に訪れた法務局の地図資料室で、戦前の地図にあたった。すると、赤い家の場所は、もともと神社の敷地だったことが分かった。
戦後の混乱で土地は散逸し、登記簿も混乱した。その隙間を突いて、誰かが幻想の屋敷を建てたのだ。
つまり、赤い家は「記録にしか存在しない」亡霊のような建物だった。
やれやれの結末
所有者は誰だったのか
結局、所有権を主張する者も現れず、赤い家は市の管理下に置かれることになった。建物は老朽化が激しく、取り壊されることが決定した。
謄本に記された名も消え、帳簿は証拠として警察に提出された。だが事件としては立件されなかった。理由は「被疑者不明」。
僕はというと、手数料ももらえず、ただ疲れただけだった。
司法書士としての決断
とはいえ、僕は誰かの嘘を暴いたわけでも、真実を証明したわけでもない。ただ、登記簿の間違いを一つ訂正しただけだ。
それでも、そこに「意味」があったのかもしれない。少なくとも、紙の上では。
やれやれ、、、と僕は呟きながら、コーヒーを啜った。
登記簿が語るもの
紙の記録に眠る人間模様
登記簿とは、法律の記録でありながら、人の人生がにじむ場所でもある。書かれていないことにこそ、真実が潜むのだ。
この事件で僕が学んだのは、嘘を見抜く力ではない。記録の「余白」を読むことの重要さだった。
それは、サトウさんがいつも見抜いていることでもある。
そしてまた次の依頼が始まる
事務所の電話が鳴った。次の依頼人は、ある空き家の「仮登記」を調べてほしいという。
僕は椅子から腰を上げ、デスクの上の地番ノートを開いた。今日もまた、紙の迷路に飛び込むのだ。
そしてサトウさんは、相変わらず無言で書類を差し出してきた。