失われた証明の行方
朝の一報
午前八時三十三分、いつものようにコーヒーを片手に事務所へ入ると、サトウさんが眉ひとつ動かさずに言った。
「今日の九時に田中さんが来所予定です。大事な証明書が無くなったそうです」
「やれやれ、、、」と呟いたものの、正直なところコーヒーよりも胃薬が欲しくなった。
サトウさんの無言の眼差し
書類棚に目をやりながら、私は思った。彼女の目が無言で「また何かあるな」と語っている気がする。
別に超能力者でもあるまいし、と思いながらも、その予感だけはよく当たるのだ。
「田中さん、数年前に名義変更の登記で関わった方ですよね?」と私が聞くと、サトウさんは無言で頷いた。
旧い保管庫の鍵を探して
紛失届と依頼人の動揺
「確かにこの事務所に預けたんです」と田中さんは繰り返した。
彼が言う「この事務所」とは、具体的には私の机の左下の引き出しのことらしい。
記憶にはない。ただ、彼の必死さは本物で、その焦燥には嘘がなかった。
過去の登記と照合記録
私は旧いファイルから当時の登記資料を引っ張り出した。平成から令和にまたがる書類の山の中に、田中さんの名義変更に関する記録が確かにあった。
だが、肝心の証明書の写しが見当たらない。
コピーを取っていない?そんなはずは、、、と背中に嫌な汗が流れる。
申請書に残る不自然な癖字
やれやれ、、、記憶の闇と向き合う
事務所の隅の棚に、見覚えのないクリアファイルが挟まれていた。
そこにあった一通の申請書——筆跡がどこか妙だった。まるで誰かが本人になりすまして書いたような。
「この“た”の書き方、昭和の書道教室風ですね」とサトウさんが鋭く指摘した。
元依頼人の転居先
調査の結果、田中さんは最近まで高齢の母親と同居していたが、数ヶ月前に突然転居していた。
転居先をたどると、そこには同じ名字の全く別の人物が住んでいた。
「つまり、誰かが“田中”という名前を使って登記をした可能性があるってことですか?」と私は頭を抱えた。
元野球部の勘が働いた瞬間
書類に込められた意図
ふと、あの申請書のクセ字を思い出した。あの“た”の形。高校時代の顧問がよく書いていた字と似ている。
あの字を書ける人間は、かなり限られている。
「まさか、、、」と、私はかつての同級生で不動産業を営む岡本の顔を思い浮かべた。
真犯人と消えた印影の意味
岡本の会社を訪ねると、すぐに彼の態度が硬化した。
「なんの話だよ」と言いながらも、彼の机の引き出しから“消えた証明書”が見つかるまでに時間はかからなかった。
「昔、お前に貸した金を、こうして返してもらうとはな」とつぶやいた岡本の声は、どこか空虚だった。
新たな証明と静かな結末
書き直された真実
結局、田中さんはまったくの無実だった。証明書は偽造され、彼の名義は悪用されていた。
岡本には不正使用による刑事告発がなされ、事件はひとつの終息を迎えた。
「やっぱり最後に書類を救うのは、細部を見る目ですね」とサトウさんが淡々とまとめた。
今日も変わらぬ机の上で
その日の夕方、私は机の上でふたたびコーヒーをすすっていた。
「やれやれ、、、証明書一枚でこれだけ骨が折れるとは」
隣ではサトウさんが、もう次の案件の書類を静かに準備していた。