話題を振られても何もない日常
「最近どうですか?」と聞かれて、言葉が出てこないことが増えた。正直に言えば、特に何も起きていない。仕事と家の往復、それだけ。週末に何をしているか聞かれても、「寝てました」と答えるのが関の山。別にそれが悪いとは思っていないけれど、会話が続かない自分に、なんとなく情けなさを感じる。事務員さんとのやりとりも業務的なことばかりで、雑談に花が咲くことはほとんどない。
「最近どう?」が一番困る質問
「最近どう?」という一言に、なぜか緊張してしまう。昔はそんなことなかったはずだ。でも今は、何か話さなきゃ、面白いことを言わなきゃ、とプレッシャーに感じてしまう。人と会話する機会自体が減っているからだろうか。日常に変化がなさすぎて、自分の人生が止まっているような錯覚にすら陥ることがある。
休みの日はひたすら寝て終わる
かつては休日に出かけたり、友人と会ったりしていた。でも今では、週末はひたすら寝るだけ。気づけば午後、そこから洗濯をして、コンビニで適当にご飯を買って一日が終わる。そんな日が続くと、誰かに話すネタなんてあるわけがない。無理に出かけようとも思わないし、正直それほど寂しいとも感じていなかった。でも「話題がない」という現実を突きつけられると、何か大事なものを忘れているような気がする。
誰とも連絡を取らないことが普通になった
昔の同級生からのLINEに、既読をつけたまま返信できずにいる。気づけば、こちらから連絡を取ることも減った。人とつながることが面倒になったのか、あるいは、話す内容がない自分を見せたくないのか。どちらにせよ、孤独がじわじわと生活に染み込んでいる。それでも日々は過ぎていくし、忙しさにかまけて誤魔化している自分がいる。
元野球部でも話題にならない悲しさ
「学生時代、何かやってました?」と聞かれれば、「野球部でした」と胸を張って言える。でも、それ以上が続かない。どれだけ打った、どれだけ走ったという話は、もう通じないし、興味を持たれない。昔はそれで十分だったけれど、今は「今の自分」に話題がないからこそ、過去の栄光にすがる自分が苦しい。
昔話ばかりしている自分に気づく
話題がなくなると、人は自然と過去の話をしがちだ。昔の部活の話、学生時代のバイトの話、親のエピソード。でも、ふと気づく。「それって何年前の話?」と。自分の時間が止まっていることに気づかされる瞬間だ。しかも、相手が若い人だったりすると、その話自体が通じなかったりして、ますます孤独感を強める。
スポーツの話しかできないのかという劣等感
野球の話はある。でも、それ以外がない。ドラマや音楽、流行りの映画の話になると、全くついていけない。テレビも見ないし、SNSもあまり見ない。だからこそ、会話の幅が極端に狭くて、話すたびに自分の引き出しの少なさに打ちのめされる。知識としても、感覚としても、どこか置いてけぼりだ。
今を生きてない感覚に襲われる瞬間
ニュースの話題にすらついていけないと、自分が今の世界からズレて生きているような感覚になる。仕事では最新の法改正や実務には敏感なのに、世間話になると急に黙り込んでしまう。「自分は何をしてきたんだろう」と、ふとした時に思ってしまう。過去の自分ばかり抱えて、今を見ていない自分がいる。
独身であることの透明感
「家族は?」「お子さんいらっしゃるんですか?」そんな何気ない質問に、いつも苦笑いで返す。独身というだけで、会話が止まってしまうことがある。特に地方では、まだまだ家庭を持つのが“普通”という空気が根強い。独身だから何かが欠けている、そんな目で見られることもある。けれど、それを否定する元気も、もうあまり残っていない。
誰にも干渉されない自由と孤独
誰にも口出しされない生活は、確かに気楽だ。家に帰れば静寂が待っているし、好きなように時間を使える。でも、ふとした瞬間に「話す相手がいない」という現実に、心が沈む。誰かと何気ない話をしたいと思っても、その「誰か」がいない。自由と孤独は、常に紙一重だ。
自分が何者かよくわからなくなる
日々、仕事に追われ、名前を呼ばれるのはほとんどが業務上のこと。司法書士という肩書きはあるけれど、「それ以外の自分」ってなんだったか、わからなくなる。誰かと話すことで、自分を再確認できるはずなのに、その機会がないと、自分が透明人間のように感じられる瞬間がある。
事務員さんとの会話も業務連絡だけ
事務員さんとの関係は悪くない。むしろ、信頼している。でも、業務連絡以外で話す機会が少なすぎる。仕事が忙しいせいもあるが、それ以上に、自分から雑談をふるのが苦手になってしまった。昔はもっと話せていた気がするのに、今は妙に距離を感じてしまう。
それ以上踏み込めない空気がある
一人の事務員さんに頼っているという関係上、変に距離を縮めすぎてもいけない気がして、どこかでブレーキをかけてしまう。「仲良くなりすぎたら逆に気まずくなるのでは?」という思いもあって、結果的に話しかけられない。だけど、それが余計に孤独を深めていることも自覚している。
話す内容を探して疲れる日々
朝、「今日はどんな話をしようか」と考えてしまう時点で、もう会話が自然ではないのだと思う。話題を準備しないといけない関係性は、疲れる。けれど、何も話さないと、ますます距離ができる。このジレンマに悩まされながら、結局また黙って一日が終わっていく。
この状況から抜け出すには
日々に刺激がなく、話す相手もいない。そんな中で、「このままでいいのか?」という問いが、心の奥に居座っている。でも、どう変えていけばいいのか、その答えが見つからない。話題を持つには、まず動かないといけない。でも、それすら面倒に感じるのが本音だ。
共感してくれる人がいるだけで救われる
結局、誰かと共感しあえることが、救いになるのだと思う。この文章を書きながらも、「ああ、自分だけじゃなかった」と思ってくれる誰かがいれば、それだけで少し心が軽くなる気がする。話題がなくても、話すことがなくても、気持ちを共有できる相手がいるだけで、孤独は和らぐ。
自分の中にある「誰かと話したい」という声
声には出さないけれど、本当は誰かと話したいと思っている。ちょっとした愚痴でもいいし、くだらない話でもいい。話題がないから話さないのではなく、話さないから話題がなくなるのかもしれない。小さな一歩でいい。まずは、自分から声をかけてみることから始めてみようと思う。
何もない日々も、実は誰かの役に立つかもしれない
特別な話題がなくても、それをこうして文章にすれば、誰かの共感につながる。何もない日々が、実は誰かの慰めになることだってある。司法書士として、日々を真面目に生きているだけでも、十分価値がある。そんな風に思えるようになったら、きっと少しずつ変わっていける気がしている。