テレビの音が心にしみた夜

テレビの音が心にしみた夜

静まり返った部屋に響いた音

一日の仕事を終えて事務所を閉め、車で数分のアパートに戻る。外はもう真っ暗で、街灯の下に自分の影だけが伸びている。玄関を開けても、ただの静寂が待っているだけだ。昔はこんな時間が「落ち着く」と思っていたけれど、最近は「虚しい」と感じるようになってきた。テレビのリモコンを手に取り、無意識に電源を入れたそのとき、リビングに音が満ちた。それだけのことなのに、妙にホッとしたのだった。

仕事終わりに待っているのは無音の部屋

一日中、電話対応や書類作成、役所とのやりとりに追われ、帰宅しても誰かが「おかえり」と言ってくれるわけではない。独立して15年、事務員さんと二人三脚でやってきたけれど、帰宅後は完全な一人。テレビもスマホもつけなければ、生活音すら聞こえない部屋の中で、ふと不安になる。「これでいいのか?」と。けれど考えたところで答えは出ないから、とりあえず晩酌とテレビだけが救いになる。

ただいまを言う相手がいない

学生時代は毎日部室で仲間とバカ話をしていたし、母親がつくる夕食を囲んで笑っていた。今はただいまと口に出しても、自分の声が壁に反響するだけだ。つい癖で声に出してしまって、「俺、何やってんだろ」と苦笑いするのが常。孤独は贅沢だと言う人もいるけれど、それは選べる立場の話。こちらは選択肢がなかった。いつの間にか、独りに慣れすぎてしまったのかもしれない。

弁当のビニール音が空しく響く

コンビニで買った弁当を電子レンジで温め、ビニール袋から出すときの音が、まるで生活のBGMになっている。毎日同じような冷たい音。その音に、なぜか急に涙が出そうになった日があった。弁当の味は悪くない。でも、手作りの温かさや、食卓を囲むぬくもりとは違う。こうして気づかぬうちに、心がどこかで乾いていたのだと、ビニールのカサカサ音が教えてくれた気がした。

ふとつけたテレビが救いだった

その夜、なんとなくテレビをつけた。別に観たい番組があったわけじゃない。ぼんやりとした画面と、人の声が部屋を満たしていく。それがあまりにも心地よくて、思わずソファに沈み込んでしまった。何かが癒されるような気がして、じっとそのまま画面を眺めていた。まるで誰かと一緒にいるような、錯覚かもしれないけれど、それでも今の自分にはありがたかった。

誰かがしゃべっているという安心感

テレビから流れる声、それがどれだけ安心感を与えてくれるものか、初めて実感した。バラエティの賑やかな笑い声も、ニュースキャスターの淡々とした口調も、誰かがそこに「いてくれる」ような感覚になる。誰とも会話しないまま一日が終わることがあるこの生活で、話し声というのは思った以上に心を満たす存在なのだ。テレビの向こうに「人」がいる。ただそれだけで、少し救われた気がした。

ニュースの声が妙に優しく聞こえた

あの日流れていたのは、夕方のローカルニュースだった。地方の小さな祭りの特集で、インタビューに答える地元の人たちの声が妙に耳に残った。普段なら流し見して終わるような内容なのに、そのときはなぜか一言一言が胸に刺さった。もしかしたら、自分もどこかで「誰かとつながりたい」と思っていたのかもしれない。テレビはただの家電。でもその日は、誰かと心が通じたような気がした。

CMすらも心にやさしかった夜

普段ならうるさく感じるだけのCMが、その夜はやけにやさしく感じた。小さな子どもが笑う姿や、家族で食卓を囲むシーン。それらが妙にリアルで、そして遠くて、涙腺に触れてくる。孤独とは、感情の受け皿が擦り切れた状態なんだろう。CMの数十秒にすら、温もりを感じてしまうほどには、自分が弱っていたのだと気づかされた。けれどそれでも、今夜は眠れそうだと思えた。

いつからこんなに疲れていたんだろう

ずっと走ってきた気がする。開業当初は「稼がないと」「信頼を築かないと」と無我夢中だった。気づけば10年、15年と経ち、気力だけで日々をこなしていた。でもどこかで、心が置いてけぼりになっていたのかもしれない。今回のように、テレビの音ごときで感情が動くなんて、よほど疲れている証拠だ。たまには立ち止まることも、必要なのかもしれない。

気づけば自分をいたわることを忘れていた

誰かのために頑張ることはできる。でも自分のために優しくすることって、意外と難しい。毎日同じルーチンをこなし、誰かに迷惑をかけないように気を張り、ようやく寝床につく。そんな生活をしていると、「自分を大事にする」なんて考える余裕がなくなる。テレビの音にすら癒しを求めるようになった今、自分をいたわる時間を少しでも作る必要があると痛感した。

独立してからの十数年を振り返る

開業当時、机と電話とプリンタだけの小さな事務所で始まった。誰にも頼れず、仕事も少なく、月末は家賃を払うだけで精一杯だった。でも、必死だったからこそ、今がある。とはいえ、成果を出すたびに何かが満たされるわけじゃない。どこかで置き去りになった感情は、こうして夜になってから顔を出す。人間って、数字だけじゃ満たされない生き物なんだと、あらためて思う。

優しさに飢えていたのは自分だったかもしれない

仕事では冷静であることを求められるし、感情を表に出すのは「プロらしくない」と思っていた。でも実は、一番優しさを必要としていたのは、自分だったのかもしれない。誰かにねぎらってほしい、認めてほしい、そんな当たり前の感情すらも、どこかに押し込めてしまっていた。だからこそ、テレビの中の「他愛ないやりとり」に心が震えたのだと思う。

明日も仕事 それでも

休み明けはまた登記申請、相談対応、書類作成、電話の嵐。それでも、あの夜のテレビの音を思い出せば、少しだけ気が楽になる気がする。誰も自分を助けてくれるわけじゃない。でも、ちょっとだけ立ち止まって、「まあいいか」と言える余裕があるかどうか。それだけで、明日の景色は違って見える。小さな癒しが、大きな支えになることもある。

少し気持ちを切り替えられた夜

あの夜、何かが変わったわけじゃない。でも確かに、少しだけ肩の力が抜けた。テレビの音に救われるなんて情けないと笑われるかもしれない。でも、誰かの優しさを思い出すきっかけになったのなら、それだけで十分だ。日常に埋もれた小さな癒しは、決してバカにできない力を持っているのだと思う。

テレビの音がくれたひとときの癒し

何の変哲もない夜。けれど、テレビの音がただの「情報」ではなく、「温もり」として届いた。忙しさに紛れて忘れていた感情、押し殺していた寂しさ、気づかぬうちに溜まっていた疲労。そんなものが、テレビの向こうからそっと溶かされていくような気がした。音が心にしみる夜があっても、悪くない。

たまには立ち止まってもいいんじゃないか

がむしゃらに走ってきた。誰にも頼らず、黙々と。だけど、本当はもう少し、肩の力を抜いてもよかったんだと思う。心がしんどい時、誰かの言葉や音にすがってもいい。たまには立ち止まって、何も考えずにテレビでも見よう。明日のために、そんな夜があってもいい。そう思えるようになっただけで、きっと十分だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。