戸籍の家族欄が埋まるほどに浮かび上がる僕の孤独

戸籍の家族欄が埋まるほどに浮かび上がる僕の孤独

戸籍という書類に触れ続けて見えてきたもの

司法書士という仕事柄、戸籍謄本に目を通す機会は多い。登記や相続の業務で、クライアントの家族構成や生い立ちを読み解くことが求められる。それはあくまで「業務」として処理しているつもりなのに、ふと自分自身のことを照らし返してしまう瞬間がある。書類の中には、結婚・離婚・出産・死亡といった出来事が淡々と記録されていて、それを他人の人生として眺めているうちは冷静でいられる。しかし、自分の戸籍の空白と照らし合わせたとき、不思議と胸の奥がじんわりと痛むのだ。

司法書士の仕事で日常的に目にする家族のかたち

日々の業務の中で、他人の家族関係をたくさん目にする。ある日届いた相続の依頼では、3人兄弟のうち長男が遺産分割を主導し、末っ子は海外在住で連絡もままならないという状況だった。家族の関係性が良好なケースもあれば、疎遠になっているケースも少なくない。それでも戸籍にはきちんと「長男」「次男」「三男」と並んで記録されていて、そこにはつながりの証がある。僕にはその「つながり」がない。そんな風に意識するようになったのは、いつからだっただろうか。

出生から婚姻離婚まで詰まった一枚の紙の重さ

戸籍謄本というのは思いのほか情報量が多い。例えば、一人の女性の戸籍を見ると、出生、結婚、離婚、再婚、そして子の出生と、人生の節目がずらりと記録されている。役所の書類にすぎないのに、そこにはドラマがある。僕も一度、自分の戸籍を取り寄せたことがある。ただ、そこには出生の記録しかなかった。実家を出て一人暮らしを始めた以降、変化がない。だからこそ、その一枚の「何も起きていない紙切れ」が、妙に重たく感じたのだ。

第三者としての冷静さと当事者としての感情

業務中は冷静に、事務的に処理するのが当然だ。感情を挟んでいては仕事にならない。だが、自分が独身で、家族のいない司法書士であることを忘れることはない。例えば「婚姻届をどこで提出したか教えてください」とクライアントに聞くとき、どこかで心の中に小さな声がする。「俺は一度も書いたことがないな」と。そんなときは深呼吸をして、笑顔を作る。たぶんバレてない。でも心のどこかがひび割れるような感覚がする。

自分の戸籍をふと見返してみたときの違和感

ある日、役所での手続きついでに、自分の戸籍謄本を請求してみた。理由は特になかった。ただ、気になったのだ。そしてその用紙を受け取った瞬間、「ああ、俺の人生って本当にここにしかないんだな」と思った。婚姻欄は空欄、子どももいない。兄弟はいるが疎遠で、連絡も年に一度あるかないか。その用紙は事実を伝えるだけなのに、まるで「お前は一人だ」と突きつけてくるようだった。

空白の欄に向き合うときのやるせなさ

婚姻欄が空白というのは、単なる事実だ。だが、書類で見ると何とも寂しい。例えば、同年代の友人たちは結婚して、子どもが生まれて、家族構成がにぎやかになっている。そんな彼らの戸籍は、欄が埋まり、線が引かれ、複数ページにまたがっていることもある。僕のは一枚だけで完結する。どれだけ真面目に仕事をしていても、その空白が自分の人生の「未達成項目」のように感じてしまう。

家族構成を記す欄がまぶしく感じる瞬間

クライアントの戸籍謄本を見ていると、配偶者、子、孫と、しっかりと家族の記録が並んでいることがある。そういう欄を見るたびに、「いいなあ」と素直に思う。別に羨ましいわけじゃない。…と思っていたけれど、たぶん少し羨ましいのだろう。休日に誰かと食卓を囲むという感覚が、もう何年もない。戸籍はその象徴のように感じてしまう。

独身司法書士のリアルと静かな焦り

「独身でもいいじゃないですか」と言ってくれる人もいる。でも、そう言ってくれる人の多くは家族持ちだったりする。こちらからすれば「そっち側に行けた人」の言葉にしか聞こえない。日々仕事に追われていれば、それなりに生活は回る。でも、心の奥にある空洞は、ふとした瞬間にじわじわと広がってくる。特に、戸籍を扱う仕事に携わっていると、それは避けられない現実だ。

忙しさに紛れて見ないふりをしてきたもの

開業から10年が経つ。事務所は小さいけれど、地元の依頼も増えて、業績は悪くない。事務員さんにも助けられてなんとか回している。ただ、その「なんとか」という言葉にすべてが詰まっている気がする。プライベートはというと、空っぽだ。休日はコンビニ飯で済ませて、録画した野球中継を流しているだけの日もある。忙しさは言い訳になる。でも、その言い訳で、何を守ってきたのか、最近よくわからなくなる。

仕事が充実しているはずなのに満たされない理由

依頼が増え、報酬もそれなりに得られるようになった。それなのに、どこか満たされない。書類を整理しながらふと思う。「これ、俺の人生に必要だったんだっけ?」と。もちろん仕事は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。でも、それだけでは埋められないものがある。誰かに「お疲れ様」と言ってもらえる夜が、一番のご褒美なのかもしれないと思うようになった。

結婚という言葉に対するひねくれた反応

同級生の結婚報告には「ふーん、また一人減ったか」と思うようになった。心から祝福してるような顔でLINEのスタンプを送るけれど、どこかしらで斜に構えている。そんな自分が情けない。でも、怖さもある。もし誰かと一緒になったとして、その人にこの「疲れた司法書士の生活」を見せていいのか、自信がないのだ。

婚姻届を預かるたびに心がざわつく

婚姻届の証人欄に署名する機会もたまにある。地元の知人から頼まれたりする。そういう時、表面上は「おめでとうございます」と笑顔で対応する。でも、心の奥では「この紙、俺は出したことないな」と思ってしまう。自分が扱っている書類なのに、経験したことがない。まるで役に立たない料理人みたいで、ちょっと惨めだ。

誰かの門出に立ち会う職業としての矛盾

司法書士として、人生の節目に立ち会う機会は多い。相続、結婚、離婚、会社設立…。でも、当事者になったことは一度もない。これは仕事なんだからと割り切ってはいるが、それでもどこか、他人の人生を眺めてばかりの人生なのかと感じてしまう。少し寂しいけれど、これはきっと僕だけじゃないと思いたい。

羨ましいとも思わないふりが板についてしまった

「まあ別に、ひとりで気楽だし」とよく言っている。でも、それはたぶん、自分に言い聞かせているだけだ。本音を言えば、寒い夜に誰かがいてくれたらと思うこともある。たまには家に帰って、電気がついている風景を見てみたい。けれど、そんなことは誰にも言えない。だから「羨ましくない」と言い張って、自分を保っている。

共感の先にあるささやかな救い

この文章を読んでくれる誰かも、きっと似たような気持ちを抱えているかもしれない。司法書士じゃなくても、独身でも既婚でも、孤独を感じる瞬間はあると思う。人は書類じゃ測れないし、空白があるからこそ、埋めたい何かが生まれるんじゃないか。僕自身もまだ模索中だけれど、こうして言葉にしてみると、少し気持ちが軽くなる。

同じように頑張る誰かに届けたい感情

書類に囲まれて、静かな部屋で黙々と作業している時間が長い。でもその中で、「誰かのためにやってるんだ」という感覚は、たしかにある。自分の空白があっても、誰かの欄を支える仕事をしていることに、ちょっとだけ誇りを持てるようになった。共感してもらえたら、それだけで救われる気がする。

独りだからこそ強くなれる瞬間もある

一人で食べる夕飯、一人で片付ける書類、一人で決める仕事。孤独はつらい。でも、それがあるからこそ、自分で立つ力も身についた。野球部時代の監督がよく言っていた。「孤独は仲間ができる準備だ」と。今になって、少しだけその意味が分かってきた気がする。

それでも誰かと繋がりたいと思う夜もある

どんなに強がっても、人は誰かに触れたくなる。僕もそうだ。だから、こうして文章を書く。誰かが読んでくれるかもしれないから。独身の司法書士として、少しでも「自分だけじゃない」と思える瞬間があれば、それで十分だ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓