人の人生に関わりすぎて自分の人生が見えなくなった日

人の人生に関わりすぎて自分の人生が見えなくなった日

人の人生を支えるのが仕事だったはずなのに

司法書士という職業は、ある意味「裏方」に徹する仕事です。登記や相続、会社設立に関わるたびに「その人の人生の節目」に立ち会うことになります。それは誇らしく、責任ある仕事です。でも、気づかぬうちに、私は「他人の物語」を支えることに夢中になりすぎて、自分の人生のページをめくるのを忘れていたようです。ある日ふと、自分がどこに向かっているのか分からなくなっていました。

登記の向こうにある「誰かの物語」に深く入りすぎて

「家を買いました」「父が亡くなりました」「会社を始めたいんです」――依頼者の言葉一つ一つには人生の重みがあります。最初はただの仕事として関わっていたものが、気づけば自分の感情まで揺さぶられるようになりました。ある女性が涙ながらに遺産分割の相談に来たとき、私は自分の親を亡くしたときのことまで思い出してしまった。仕事に感情を持ち込むな、とはよく言いますが、そんな理屈じゃ割り切れない場面が多すぎるんです。

書類一枚が人生を左右する

「登記ってただの手続きでしょ?」と言われることもありますが、現場にいるとそうは思えません。たとえば不動産の名義変更。たった一行の登記内容が、その後の人生の流れを変えることもあります。兄弟の関係、夫婦の関係、親との思い出。すべてが、あの書類の上に重なって見えることがあるんです。だからこそ失敗は許されないし、責任の重さがのしかかる。でもその分、依頼者の人生に強く関わってしまうんですよね。

ありがとうと言われるたびに湧く「よかった」の一方で

感謝されることが多い職業ではあります。ときに「先生がいてくれて本当に助かりました」と言ってもらえる。でも不思議なもので、その言葉を聞けば聞くほど、心のどこかがすり減っていくような感覚もあるんです。人の人生を助けるって、気持ちよく聞こえるけれど、それが続くと「自分は誰に助けてもらえるんだろう」なんて、ふと寂しくなったりする。感謝されているのに、孤独が深まる。なんともややこしい話です。

いつの間にか自分の時間が後回しになっていた

事務所の経営、事務員さんの指導、急ぎの案件の対応。そんなことに追われていたら、自分のことなんて後回しになります。昔は「休みの日には釣りでも行こう」と思っていたのに、今では休み自体があるのか怪しいレベル。気がつけば何ヶ月も美容院に行っておらず、白髪が目立ち始めた。自分のメンテナンスを忘れてしまうほど、人のことばかり考えていたんだなと、鏡の中の自分に呆れることもあります。

昼飯を抜いて相続相談に走る毎日

「ちょっとだけなら…」と始めた相続相談が、いつの間にか午後いっぱいかかることなんてよくあります。昼ごはんも食べずに対応して、帰りにコンビニのおにぎりを頬張る。健康に気を遣う暇もなく、「まぁ今だけだから」と自分に言い聞かせるけれど、そんな“今”がもう何年も続いています。体力的にもきつくなってきた45歳、そろそろ見直さなきゃいけないと思いつつ、今日も相談者がドアを開けてくるのです。

自分のための時間っていつだっけ

休みの日も、何かしら仕事のことが頭にあります。「あの登記はいつまでだったかな」「あの依頼者には連絡しておいた方がいいかな」と思うと、完全にスイッチがオフになることがない。気がつけば、映画一本すら集中して見られない日々。誰かの人生に寄り添うことに慣れすぎて、自分が何を好きだったか、どう過ごしたいのかが分からなくなってしまった。たまには、自分のために時間を使ってもバチは当たらないはずなのに。

ふと気づいた「自分の人生の空白」

先日、昔の同級生から「今度みんなで旅行行かない?」と誘われたとき、思わず「ごめん、無理かも」と口に出していました。その瞬間、なんとも言えない空白感が胸に広がったんです。別に断る理由はなかった。でも「そんなことに時間を割く余裕がない」と反射的に思ってしまった。…もしかしたら、人生の楽しみ方を忘れてしまったのかもしれない。人の人生を支えてきたはずの自分が、いま、自分を支えられていないことに気づきました。

事務所に泊まることに慣れすぎていた

仕事が立て込むと、泊まり込みになることも多いです。最初は「たまたま」だったのに、気づけば「いつものこと」に。事務所に寝袋を置いて、カップラーメンのストックをして、終電を気にしない生活。これが“頑張ってる証拠”だと錯覚していたんでしょうね。でも朝、顔を洗ってるときふと「自分、何やってるんだろう」って思うときがあります。仕事しかないって、意外と切ないものです。

家に帰っても誰も待っていない現実

遅く帰っても、家は真っ暗。テレビだけが無音で点いていて、ソファに座っても話し相手はいない。そんな夜が日常です。「寂しいね」と誰かに言われるけれど、もう寂しいかどうかも分からなくなってる。それが一番寂しいのかもしれません。昔は恋人もいたけれど、気づけば距離ができて、いつの間にか音信不通に。あのとき、「もう少し自分の時間を大事にしてたら…」と考えても、もう戻れないんですよね。

時計を見て時間の流れに虚しさを感じる

「もうこんな時間か…」と独り言をつぶやく深夜。誰とも話さずに一日が終わっていく感覚は、妙に冷たいです。時間ってのは、誰かと共有してこそ温かくなるんだと気づきました。司法書士という仕事は孤独です。一人で黙々と処理する業務が多く、感情を共有する場面も少ない。そんな中で時間だけが過ぎていくと、「自分の人生って何だったんだろう」なんて、つい考えてしまうこともあります。

それでも「誰かの役に立てた」という実感が支え

どれだけ疲れていても、どれだけ空虚を感じていても、ふとした瞬間に「ありがとう」と言ってもらえると、やっぱり嬉しいんです。この仕事を続けていてよかったなと思えるのは、そんな小さな声に背中を押されるから。決して派手な世界ではないけれど、地味にコツコツと、誰かの暮らしの裏で支える仕事。それが、今の自分の居場所であり、誇りでもあるのかもしれません。

小さなありがとうに救われる夜

遅くまで残業して、事務所の灯りを落とそうとしたとき、ふと届くLINEメッセージ。「今日の対応、本当に助かりました」たったそれだけなのに、不思議と疲れが溶けていくような気がします。直接会わなくても、声を聞かなくても、人の温もりって届くものなんだなと思う瞬間です。自己犠牲みたいに見える毎日も、誰かの笑顔があるなら、まだ頑張れる。そんな風に、心をなだめながら日々を過ごしています。

報われる瞬間はあるけれど長くは続かない

とはいえ、その感謝の余韻は長くは続きません。次の日にはまた新たな案件が舞い込み、現実に引き戻されます。「ありがとう」の言葉を心に留めておけるほど、余裕があるわけでもない。でも、そんな一瞬があるから、続けていられるのも確かです。きっと人生って、そういう短い光のような瞬間を積み重ねるものなんでしょうね。

またお願いしますと言われることの重み

「また先生にお願いしたいです」と言われると、一瞬だけ誇らしい気持ちになります。でもその裏には、「次もまた、きっとギリギリまで頑張らなきゃいけないな」という覚悟も同時に生まれる。この仕事は、信頼が重なれば重なるほど責任も増える。それでも、その期待に応えたいと思えるうちは、まだこの仕事を続けていける。そう信じたい夜もあります。

同じように踏ん張っている司法書士へ

全国どこかで、同じように夜遅くまで事務所に残っている司法書士がいるかもしれません。孤独を感じながらも、目の前の案件に向き合っている人。そんなあなたに伝えたいのは、「その頑張り、きっと誰かが見てるよ」ということです。私も見てます。あなたも、見てくれてるかもしれない。そんな気持ちを抱きながら、今日もまた書類と向き合っています。

共感の中で救われるのは自分かもしれない

この文章を書きながら気づきました。人に語りかけるつもりで書いたつもりが、結局は自分自身へのメッセージだったのかもしれません。「人の人生に関わりすぎて、自分の人生が見えない」と思っていたけれど、こうして書くことで、少しだけ自分の心の輪郭が見えてきた気がします。共感は、誰かを救うだけじゃない。書いてる本人をも救ってくれる。それが、こういうコラムの力かもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓