今日こそは早く帰ると思って机を見たら現実に戻された

今日こそは早く帰ると思って机を見たら現実に戻された

今日こそは早く帰ると思って机を見たら現実に戻された

夕方五時の決意はいつも裏切られる

今日は定時で帰る。毎朝そう思って仕事に取りかかるのに、なぜか夕方になると、その希望は音もなく潰えている。午後四時半あたりから「このままいけば、今日は早めに終われるかもしれない」と期待が芽生え始めるのだが、気がつけば五時。デスクの上に積まれた書類を見て、現実に引き戻される。電話のメモ、未処理の登記申請、そして何より、明日が締切の案件。全部、今やらないといけない。「今日こそは早く帰る」との決意は、机の上の“現実”によって、あっけなく崩されるのだ。

今日こそはの気持ちは本気だった

たとえば、朝の時点ではスケジュールにも余裕があったし、急ぎの依頼もなかった。事務員さんには「今日はちょっと早めに帰りますわ」と笑顔で宣言までした。別に遊びに行く予定があるわけじゃない。ただ、明るいうちにスーパーに寄って、野菜を買って、自炊でもしようかなと思っただけなのに。それすら叶わないのかと思うと、正直情けなくなる。けれど「今日こそは」という気持ちは決して適当なものではない。本気でそう思っているのに、どうしていつもこうなるのか。何がいけなかったのか、自己嫌悪が押し寄せてくる。

机に戻るたびに夢が崩れていく

席を外して戻ってきたとき、机の上に新しい依頼書がそっと置かれていると、肩が重くなる。タイムカードの時間に手が伸びかけていたのに、その書類を見た瞬間、すべてがリセットされる感覚。ついさっきまで「今日は少し自分の時間が取れそう」と感じていたのに、急に現実の重みがのしかかってくる。まるで、砂の城を海辺に築いているようだ。波が来るたびに崩され、それでもまた作って、また壊される。その繰り返しだ。

書類の山が静かに語りかけてくる現実

「まだ終わってないよ」と、あの書類たちは何も言わずに語りかけてくる。声は出さないくせに、存在だけでこちらのやる気を奪ってくるのだから厄介だ。デスクの上は自分の責任の証。片付いていないということは、終わっていない仕事があるということ。司法書士という仕事は、基本的に“やれば終わる”はずなのに、終わらない。毎日終わらない。それが静かに、しかし確実に、心にのしかかってくる。

定時退社という幻を追いかけて

一人で事務所を回していると、「定時」という概念がそもそも幻想のように感じてくる。法律上はあっても、実態としては誰も守ってくれないし、誰も見ていない。どんなに頑張っても、その日の仕事が終わらなければ、退社は許されない空気がある。いや、誰が許すとかの話じゃなくて、自分の良心が許さない。だから、今日もまた“幻”を追いかけて、現実に押し戻される。その繰り返しだ。

忙しさに慣れたふりをしている自分

「大変ですね」と言われても、笑って「まあまあ」と返してしまうのがクセになっている。でも内心では「本当にしんどい」と思っている。けれど口に出すと負けのような気がして、つい黙ってしまう。元野球部のプライドもあるのかもしれない。耐えることが美徳と刷り込まれてきた世代だからこそ、誰にも頼らず黙々と仕事をこなしてしまう。そんな自分がちょっと厄介でもある。

一人事務所の限界と責任の重み

もし自分がミスをすれば、すべての責任がこちらにくる。当たり前のことだが、そのプレッシャーは想像以上に大きい。補助者の事務員さんがいても、最終確認も書類の責任もすべてこちら持ちだ。特に登記などは、ちょっとしたミスが依頼人に大きな不利益を与える。だから、気が抜けない。疲れていても、眠くても、書類のチェックは怠れない。そんな緊張感の中で、今日もまた夜は更けていく。

誰かに頼ることができないもどかしさ

「誰かにお願いしたい」と思うことはあるけれど、田舎の司法書士事務所に、そう都合よく人が集まるわけでもない。仕事の性質上、簡単に外注もできない。誰かとチームで仕事ができたら楽なのかもしれないけれど、独立した時点でそれは自分で選んだ道。だから文句は言えないのだが、それでも、せめて一晩だけでも、全部忘れて頼ってみたい。そんな自分の甘えにすら、罪悪感を覚える日もある。

気づけばまた今日も晩飯はコンビニ

気合を入れて朝を迎えても、気がつけば帰り道はいつものコンビニ。コンビニの袋を提げて、くたびれたスーツ姿で自宅に戻る。晩酌のビールを開ける手にも、ちょっとした疲れが残っている。ほんの少しの自由時間さえ、心からリラックスできていない気がする。テレビをつけても頭は明日の予定でいっぱいだし、食べている最中にも書類のミスが気になったりする。なんだか損な人生だなと思う瞬間だ。

帰り道に見かける家族連れがつらい

駅前で子どもと手をつなぐお父さんを見かけたとき、どこかで羨ましさと切なさがこみ上げてくる。彼らはきっと、家に帰って食卓を囲んでいるのだろう。対して自分は、冷えた弁当をひとりで黙々と食べるだけ。誰かと会話することもない夜が日常になっている。昔はそんな生活も「気楽でいい」と思っていたけれど、40代も半ばに差しかかると、ふとした瞬間に孤独の重みが身にしみるようになる。

独身の気楽さよりも孤独が勝つ夜

誰にも縛られない生活。自由に見えるが、それは裏を返せば、誰にも待たれていないということでもある。誰かのために急いで帰る必要がない。そう言えば聞こえはいいけれど、やっぱり心のどこかで、誰かに必要とされたいという思いはある。ペットでもいれば違うのかもしれないが、今の自分にはそれすらいない。静まり返った部屋に帰るたび、「今日も誰とも話さなかったな」と思いながら、電気ポットの音だけが響く。

モテない人生に慣れてしまった悲しさ

高校までは野球部で、それなりに体力もあったし、見た目だってそんなに悪くなかったと思う。でも気がつけば、恋愛というものから遠ざかって久しい。婚活アプリを開いても、面倒くささのほうが先に立つ。きっとこのまま誰とも出会わず、老後を迎えるのだろうなと思うと、切ないけど、もう慣れてしまった。慣れることが良いことなのか悪いことなのか、自分でももうよくわからない。

それでも明日は早く帰ると決める

こんな毎日だけど、それでも心のどこかで「明日こそは」と思ってしまうのが不思議だ。希望がゼロになったわけではない。たとえ小さな希望でも、それを持っていないと、今の仕事は続けられない。だから、何度裏切られても「明日は違うかもしれない」と思う。それが自分にできる、せめてもの自己防衛なのかもしれない。

少しでも自分を褒めてやりたい瞬間

誰も見ていないし、誰も褒めてくれないけど、それでも今日も全部やりきった。それはそれで、誇ってもいいことなのかもしれない。自分の中だけで、「よくやった」と言ってやる時間を作るようにしている。たったひとつの書類ミスがなかった、それだけでも良い日だと認めたい。完璧じゃなくても、今日も踏ん張った。それだけでも、十分じゃないか。

夢を持つことをやめないために

「このままでいいのか」と思う日もある。でも「何かを変えたい」と思っている限り、まだ自分には前を向く力が残っているということだろう。今さら大きく人生を変えられる気はしないけど、ちょっとだけ楽に生きられるようにしたい。そのために、自分の気持ちをこうして言葉にしていくのも、ひとつの手段だ。夢とまではいかなくても、希望だけは持ち続けたい。

今日の机も頑張った証だと思ってみる

書類の山、ペンの散らばり、付箋のメモ。それらを見て「疲れる」と思うか、「頑張った証拠」と思うかで、少しだけ心の持ちようが変わる気がする。どうせなら、頑張ったな、と自分に言ってあげたい。帰る時間が遅くなっても、自分なりのやり方で、今日もなんとか乗り切った。そう思える夜があるだけで、少しだけ救われる。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓