夜の静けさが依頼者を呼び戻す
夜に響く依頼者の声
静まり返った事務所で
「カチッ、カチッ」
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。事務所の蛍光灯が一つ、じりじりと泣いている。
外は雨。梅雨時の夜は湿度が高く、紙もなんとなく湿って重たい。今日もまた誰とも飲まず、誰にも会わずに夜が来た。
「これで全部ですね、先生」
夕方、サトウさんがそう言って帰っていった。残された書類の山を前に、俺はまだ座っている。
脳裏に焼き付いた依頼者の言葉
「父が残したこの家、なんとか登記しておきたいんです」
先月、涙ながらに語っていた依頼者の表情が、ふと浮かんだ。
紙の上の住所と名前の羅列に、感情はないはずなのに。不思議と、その声だけは耳に残っている。
なぜ夜になると考えてしまうのか
忙しさの隙間に入り込む記憶
日中は動いている。電話に追われ、書類に目を走らせ、申請期限と格闘する。
けれど、夜になると妙なことに、静寂とともに依頼者の表情が頭に浮かんでくる。笑顔も、不安も、怒りさえも。
過去の案件が蘇る瞬間
昔、初めての相続登記を手がけたときの女性。戸籍の不備で思いがけず泣かせてしまったことがある。
「ちゃんと説明してくれればよかったのに」
あのときの言葉は、今でも俺の中に沈殿している。
司法書士という職業の重み
依頼に込められた人生の断片
「書類を整えるだけ」と思ってこの仕事を選んだ若い頃。だが気づけば、他人の人生にぐっと入り込んでいる。
ある意味、これは“名もなき探偵業”だ。名探偵コ○ンが事件の真相を暴くなら、俺は“名前の誤字”の真相を暴いている。
人の運命に触れてしまう職責
間違い一つで、相続が止まる。解決できなければ、人生も止まる。
誰も言わないけれど、司法書士ってやつは、影の参謀だ。
そしてその重みに、夜はいつも少し重たくなる。
サトウさんの一言が夜を救う
何気ない言葉が胸にしみるとき
「先生、そんなに考え込んでも相手には伝わりませんよ」
夕方、サトウさんにそう言われた。軽口のようでいて、妙に効く。
依頼者との距離の取り方を学ぶ
感情を抱えすぎると、沈む。
だが抱かなければ、何も伝わらない。
サトウさんはたぶん、そのあたりのバランス感覚が絶妙なんだ。さすが元吹奏楽部の副部長。ブレスの取り方がうまい。
結局 ひとりの夜に戻る
書類と記憶に囲まれた部屋で
ふと机の上のハンコが目に入る。
「今日はこの子が主役だったな」
まるで登記という舞台に、ハンコと俺が主演していたかのようだ。探偵役ではない。名脇役、いや、せいぜい通行人Aだ。
やれやれ、、、自意識だけは探偵漫画の主人公気取りか。
明日もまた 誰かの人生の一端を預かる
時計は0時を回っていた。
俺は立ち上がる。
シャツのしわを伸ばし、スーツに袖を通す。
「さて、帰るか。明日もまた誰かの“人生の地図”を引き直す仕事が待ってる」
そんなことを、独り言のように呟きながら、事務所の鍵を閉めた。