認印は財布にしまえ心の余裕も一緒に
「またかよ、先生」
サトウさんのため息まじりの一言に、僕は小さく肩をすくめた。
金曜の昼下がり。司法書士という看板を掲げるからには、印鑑ぐらい常に持ち歩くべきなんだろうけど、生憎と僕はそのへんがルーズである。カバンを変えた拍子に入れ忘れたか、はたまた昨日の夜、机の上に置いたままか……。
「やれやれ、、、」
思わず声が漏れる。書類提出の直前に認印がないことに気づくなんて、まるでサザエさんが「カツオー!」と叫ぶ瞬間のようだ。僕は司法書士界のサザエさんだ。というより、もはや三河屋のサブちゃんか。
忘れたことを悟られない演技力
依頼人の前では、平静を装ってみせる。かつて『怪盗キッド』が警官に囲まれながらも涼しい顔をしていたように。だが残念ながら、僕の顔芸には限界がある。
サトウさん、そっと差し出す
サトウさんは、黙って小さなケースを開き、中からシンプルな黒い印鑑を取り出した。僕がいつものようにやらかすことを見越して、常に2本持ち歩いているのだという。
「先生、予備の分、使ってください」
……完敗だった。
財布に入れておくという最適解
翌朝、コンビニで買った小さな印鑑ケースに、愛用の認印を入れた。そして、それを財布にしまい込んだ。
財布——それは、僕がどんなにボケていても忘れない唯一の私物。
「認印は財布にしまえ、心の余裕も一緒に」
そうつぶやきながら、僕はカバンを持たず、ポケットに財布だけを入れて玄関を出た。これでもう、「あ、印鑑がない……」という冷や汗はかかなくて済む。
サトウさんの一言で、僕は変わった
……のだと、思いたい。
「先生、それって最初からできたことですよね?」
彼女の一言がグサリと刺さる。やれやれ、、、今度の三連休は自己反省会でも開くか。
(了)