朝一番の依頼人は喪服だった
扉を開けた瞬間、薄墨色のスーツと香典袋が目に入った。八月の暑さもどこか遠く、湿った空気だけが重くのしかかる。無言で深く頭を下げたその女性は、椅子に腰を下ろすと小さな声で口を開いた。
「再転相続って、司法書士さん、どこまで関係あるんでしょうか?」
ああ、また妙な話が始まったな、と僕は心の中でため息をついた。
重たい沈黙を連れてきた女性
その女性、山川真由美と名乗った。亡くなった父の兄が相続放棄をしており、彼女の父も数年前に病死。結果として、彼女に相続権が巡ってきたというのだが、土地の名義が妙だった。
戸籍をたどっていくと、数代前の記載に不自然な空白があった。まるで何かが隠されているかのように。
「私、本当に相続人なんですか?」彼女の声には怯えよりも疑念が混じっていた。
戸籍謄本に記された再転相続の影
僕は戸籍謄本と登記簿を並べて睨んだ。平成の初めに亡くなった曾祖母の名義が残っており、しかもその登記がされていない。そこから父の兄、父、そして真由美さんへと再転相続がなされる。
が、誰もこの名義の土地に触れようとしてこなかった形跡がある。まるで、触れてはいけない何かがあるかのように。
「妙だな……これは、放棄ではなく、隠蔽かもしれない」
遺産は相続されるものか背負うものか
法定相続情報一覧図を作成しようとしたとき、サトウさんがぽつりと呟いた。「これ、相続人の数、合いませんよ」。
見落としがちな“ひ孫”の記載を彼女は拾い上げていた。さすがだと思うと同時に、僕の背中に冷や汗が流れた。見落としていたのは、僕だった。
再転相続の渦の中に、まだ誰かがいたのだ。
三代に渡る争続の火種
争続――争う相続。それは珍しい話ではない。が、三代に渡って誰も登記をしなかった土地が、今さらになって表舞台に現れたのは、なぜか。
調べていくうちに、その土地がかつて隠れた借金の担保に使われていたことがわかった。しかも、担保権の抹消がされていない。
「やれやれ、、、」と、僕は無意識につぶやいた。まるでサザエさんで波平が怒る前の静けさのようだ。
姉妹の語る異なる父の姿
真由美さんには姉がいた。だが、姉は「父がこの土地のことを隠していた」と断言し、弟の真由美さんとは対立していた。
姉妹は同じ家に育ちながらも、父親の記憶がまったく違っていた。ひとつは優しさ、もうひとつは嘘。
僕はそのズレに、何か意図的な記憶の改ざんを感じた。
サトウさんの冷静な一言
「これは相続じゃなくて罠ですね」
サトウさんの言葉は、まるでルパン三世の不二子が罠を察知するかのように鋭かった。彼女が指差したのは、登記簿の横にあった古い納税通知書だった。
そこには、名義と違う人物の名前がうっすらと二重に印刷されていた。誰かが、意図的にその土地を手に入れようとしていた可能性がある。
やれやれ、、、また面倒な案件だ
僕は眼鏡を外し、コーヒーを一口すすった。やれやれ、、、また面倒な案件だ。だが、こういう事件の方が燃える。
そう、かつて野球部で9回裏に逆転打を打ったときのような感覚だ。ドン詰まりの局面ほど、脳が冴える。
思い出した、あの時の快音。あれはたぶん、僕の人生の中で最も派手な音だった。
消えた養子縁組届
法務局にあった古い記録を取り寄せたところ、養子縁組届が提出された形跡があった。だが、それは家庭裁判所に未提出だった。
つまり、誰かが途中で止めたのだ。そしてその人物こそが、真の動機を持つ人間なのだろう。
すべてのピースが揃い始めた。
役所に残された空白の記録
真由美さんの父親が、なぜかある年の住民票にだけ記載がなかった。その空白の1年、彼はどこにいたのか。
近所の不動産屋に聞き込みをしたところ、「ああ、あの人、あの頃よく怪しい男と一緒にいたよ」との証言。
やはり、相続は人の心の裏側を暴く。
遺言書には記されなかった名前
古い茶箱の底から出てきたのは、封筒に入った遺言書の写しだった。だが、そこに記されていた相続人の名前は戸籍と一致しない。
つまり、その遺言は正式には無効。だが、そこには本当に渡したかった人の名があった。
その人こそ、争続の本当の中心人物だったのだ。
封印された手紙と火事跡の真実
封筒の隅に焼け焦げがあった。それは数年前に家が火事に遭った時のものだった。偶然ではない。
誰かが、その手紙を処分しようとしたが果たせなかった。何者かが、意図的にこの“相続”の流れを止めようとしていた。
それが、再転相続という形で甦ったのだ。
疑惑の相続登記
登記済証がなぜか二通存在していた。どちらも本物。しかし片方は使用された形跡がない。
実際の登記は、片方の書類を使って秘密裏に行われていた。誰かが、すでに手を回していたのだ。
サトウさんは「あーあ、また古い登記が出てきましたね」と呟いた。苦笑がこぼれる。
元司法書士が語る一件の過ち
この謎を解いたのは、昔この家の登記に関わった老司法書士だった。
「あの時は、確かに依頼されたが……妙に急かされたんだ。今思えば、誰かが何かを隠そうとしていた」
それが、相続という名のカモフラージュだった。
そして誰も相続しなかった
最終的に、真由美さんは土地の相続を放棄した。姉も同様に辞退。
だれもが関わりたくないと思うほど、遺産は重荷になっていた。
だけど、その選択こそが、父の残した最後のメッセージだったのかもしれない。
残された土地と胸に刻まれた名前
土地は最終的に国庫へと帰属された。登記簿には、曾祖母の名が今も残る。
だが、その横に添えられたメモには、見知らぬ名と、ただ一言「許してほしい」とだけ書かれていた。
再転相続は、家族の記憶を巡る旅だったのだ。
今日もまた静かに事務所の灯が点る
事件が終わった翌日、僕はいつものように机に向かっていた。
サトウさんが持ってきた書類の山を見て、ため息と共に「やれやれ、、、」とつぶやく。
コーヒーの香りと判子の音、それからほんの少しの孤独が、今日も僕の周りを静かに包んでいた。