雨ニ濡レタ謄本ガ知ッテイル

雨ニ濡レタ謄本ガ知ッテイル

司法書士は雨を嫌う

朝から土砂降りだった。窓ガラスに叩きつける雨粒のリズムが、妙に腹立たしかった。今日に限って予定が詰まっているというのに、こういう日に限って靴は滑るし、傘は裏返る。まるで、サザエさんのオープニングよろしく、私が一歩外に出るたびに災難が追ってくるようだった。

「ま、濡れた謄本は洒落になりませんけどね」とサトウさんが淡々と言った。そう、今日は戸籍謄本の確認作業が山積みだったのだ。よりによってこの雨の中、それを持参した依頼人がやってくるというのだから、もう勘弁してほしい。

午前九時事務所の雨音

カラン、とドアの鈴が鳴った。振り返ると、黒いレインコート姿の男が立っていた。濡れたフードを脱ぐと、無精髭の下から真っ直ぐな目がこちらを向いた。「この謄本、見ていただきたいんです」差し出された封筒には、雨染みが滲んでいた。

男の名はコウダ。戸籍に不審な記載があると言って、調査を依頼してきた。具体的には、亡くなった父の戸籍に、見知らぬ人物の名があるという。しかも、その人物が「子」として記載されているというのだ。

消えた名前の謎

私は謄本を読み込んだ。確かに、現在の戸籍には一名、不自然に追加された形跡がある。除籍簿や改製原戸籍を遡って調べる必要があった。だが、役所ではそう簡単に過去の記録を引き出せない。

「これはまた…厄介ですね」私は頭を掻いた。「さっきのサザエさんで言えば、波平さんがいきなり『実はもう一人息子がいた』って言い出すようなもんですよ…」

家族構成に足りない一人

サトウさんがさっさと古い資料を開いていた。「これ、平成元年時点の戸籍です。ここに“ナカムラ カズヤ”という名がありますが、その後削除された記録がありません。つまり、記載されたまま行方不明なんです」

家族構成上、完全に矛盾していた。父が死亡した際の相続人として、その人物がカウントされていたら、法定相続分は変わってくる。問題は、彼が“実在する”かどうかだった。

土砂降りの調査

午後、私は役所に向かった。雨はさらに激しくなり、駐車場で靴が水浸しになった。「やれやれ、、、」思わず口をついて出た。今日は何度目だろう。

役所の片隅、古い台帳を前に係員が渋い顔をする。「この人ねえ…確かに記録上いるけど、出生届に不備があったんじゃないかって当時噂がありましたよ」ふむ、それが鍵か。

市役所の片隅で見た古い台帳

古い紙には、微妙な修正跡があった。訂正印もなく、異なる筆跡が並ぶ。「これ…偽造に近いですね」私は写真を撮り、事務所に戻った。サトウさんはすでに相続登記の申請履歴まで洗っていた。

「依頼人の兄が、去年こっそり相続登記をしてます。しかもその時、このナカムラカズヤさんが相続放棄したという書類が添付されてる。筆跡、見ますか?」

サトウさんの沈黙と閃き

サトウさんは黙って筆跡を比較した後、にやりともせず一言、「兄が書いたやつですね」と断言した。見事だった。私は思わず感心したが、それを口に出すと不機嫌になるのでやめておいた。

「偽造なら刑事告発も可能ですけど…ご依頼者がどうしたいかですね」サトウさんの目は冷静だった。私はうなずき、依頼人に事実を伝える覚悟を決めた。

彼女はもう気づいていた

「…知ってました」コウダは静かに言った。「兄が何かやってるのは、ずっと感じてました。でも、父の死後、彼が変わってしまって…どうしたらいいかわからなかったんです」

彼は告発を望まなかった。ただ、事実だけを明らかにしてほしいと願っていた。私は戸籍訂正と遺産分割協議の再構築を勧めた。それが、今できる最良の道だった。

戸籍に隠された真実

後日、訂正申請が受理され、不正な記載は削除された。筆跡鑑定の結果も決定的だったが、告発はされなかった。兄は遠方に引っ越し、今も行方は知れない。

「相続って、家族の裏側を暴く作業なんですね」とコウダが言った。私はただ静かにうなずいた。法の記録は嘘をつかない。だが、それを書くのは人間だ。

相続権を巡る偽装の動機

兄は、全てを手に入れようとしたのだろう。だが、謄本という紙一枚がその嘘を暴いた。紙は濡れても、インクは消えなかった。それが救いだったのかもしれない。

「それにしても、土砂降りの日に限って厄介ごとが来るとは」私はぽつりとつぶやいた。「昭和の探偵ドラマかっての…」

終わりなき謄本の行方

事務所に戻ると、雨は小降りになっていた。サトウさんはすでに次の案件に取りかかっていた。「次、相続財産に井戸があるらしいですよ。飲める水かどうか調べろって」

「やれやれ、、、水に縁がある一日だな」私は苦笑いした。今日もまた、司法書士の一日が終わっていく。雨は止んでも、仕事は止まらない。

雨がやんだ午後シンドウの一言

「でもまあ、濡れた謄本も乾けば使える。俺も…いつか誰かの役に立てる日がくるのかな」誰にともなくつぶやいたその声を、サトウさんは聞こえないふりをしていた。

そんな午後だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓