謎の来訪者
午後のコーヒーが冷めかけた頃、事務所の扉がそっと開いた。年の頃は四十代半ば、黒の喪服を着た女性が立っていた。目元には疲労と、何かを隠すような影があった。
「夫が亡くなったんです。…でも、私は戸籍上の妻ではありません」
やれやれ、、、また面倒な依頼だ。とはいえ、そういう複雑な話に限って妙に依頼料が良かったりする。
事務所に現れた未亡人
彼女の名は榊原エリ。亡くなった男性とは十五年の同居歴があるという。しかし、婚姻届は出していなかった。いわゆる内縁関係というやつだ。
「遺産の分割協議に加わりたいんです」エリは淡々と語ったが、目の奥は必死だった。
形式的な書類だけでなく、彼女の人生そのものが問われているような、そんな空気があった。
消えた婚姻届の影
「婚姻届は書いたが、出していないと言っていました」エリの言葉に、僕は机の上に置いたペンを転がした。
つまり、それは彼女にとって唯一の「法的証拠」になり得た可能性を、自ら失ったということだ。
サザエさん一家ならきっと「そんなの家族に決まってるじゃない!」で済んだだろうが、現実はそうもいかない。
内縁という名の関係
民法では内縁関係にも一定の保護が認められている。だがそれは、証拠があって初めて成立する。事実婚は、口では言えても証明が難しい。
「住民票とか、家計を一緒にしていた証拠はありますか?」と僕は訊ねた。
エリは頷き、分厚い封筒を差し出した。中には光熱費の名義、共同名義の口座記録、家族写真などが丁寧にまとめられていた。
登記簿に記されない絆
「家も一緒に買いました。お金は半々。でも登記名義は彼だけのものです」
やれやれ、、、典型的なケースだ。だが、これは争点として逆に使える。
内縁の配偶者が家の購入に実質的に関与していたという証明は、彼女の存在を法的に浮かび上がらせる手段になる。
住民票の記載とその矛盾
住民票には世帯主が彼で、その続柄は「同居人」。内縁関係の証明としては弱いが、逆に「親戚ではない」ことを示せるという面では使える。
登記簿に名が無くても、生活の証明がすべてを語る。まるで幽霊のように彼女は彼の人生に寄り添い、しかし法の網からは漏れていた。
「この証拠、整理して一つの陳述書にまとめましょう」とサトウさんが言った。
被相続人の遺志はどこに
法定相続人でない者にとって、被相続人の遺志こそが唯一の道しるべになる。僕たちは彼の遺品をあたり、何か残された文書がないか探した。
ノートの端に走り書きされたメモが一枚。「エリに家を残したい」それだけの言葉だった。
それでも、それが被相続人の心を示す強力な証拠になる場合がある。
遺言書の中の一文
数日後、公正証書遺言が見つかった。そこには確かに、彼女に財産の一部を渡す旨が書かれていた。
ただし、他の相続人の同意が必要な部分もあり、交渉が不可避だった。
「戦うしかなさそうね」とサトウさんは言った。冷静で、頼もしい目をしていた。
内縁の妻へすべてを
その一文に、彼の人生の答えが詰まっていた。法の形式では表現できなかった想いが、そこにあった。
それは、僕たちが動くに十分な理由だった。正義感ではない。ただ、誰かの人生を拾い上げたいという感情だ。
それでも、やっぱり疲れる仕事だな、と思ってしまう。
サトウさんの推理
「これ、彼の死後に動かされた口座があります。死亡日翌日の出金記録がある」サトウさんが指差した通帳を見て、僕は目を細めた。
「それ、他の相続人の誰かの仕業かもしれない」
話がまた一段とややこしくなってきた。やれやれ、、、これは骨が折れそうだ。
通帳の名義は誰のものか
口座は被相続人名義だったが、カードを使って誰かが引き出していた。筆跡とATMの監視カメラの記録を突き合わせた。
そこに映っていたのは、弟と名乗っていた法定相続人の一人だった。
「これで、彼女の正当性はより明確になりますね」とサトウさんは小さく笑った。
火葬許可証に記された名前
さらに火葬許可証の申請者名には、エリの名前があった。死亡届を出したのも彼女だった。
生の終わりに立ち会い、その始末まで引き受けたのは、確かに戸籍にいない「妻」だった。
そこに嘘はなかった。あるのはただ、書類の隙間にこぼれ落ちた事実だけだった。
やれやれの訪問
隣家の老婆が証言してくれた。「あの二人は夫婦だったよ、間違いないよ」
まるで水戸黄門の印籠のように、その証言は調停の場でも効果を発揮した。
「これで勝てそうです」僕はエリにそう告げた。彼女は何も言わず、ただ深く頭を下げた。
隣家の証言が動かす真実
人は、制度に守られるよりも、人に覚えられることで救われるのかもしれない。
「最後の十年、彼女が全部支えてたよ」その一言が、何よりも強い証拠になった。
登記簿に記されなくても、人生は確かにそこにあったのだ。
写真に映る二人の姿
一枚の写真。海辺で寄り添う彼とエリの姿。笑顔が、全てを物語っていた。
それを見て、僕は少しだけ目頭が熱くなった。誰かを証明するということは、結局、その人を肯定することなのだ。
司法書士は、それを文字にするだけの存在かもしれない。
結末は静かに
調停は円満にまとまり、エリは家の所有権を得た。名義変更の申請書にサインしながら、彼女は小さく呟いた。
「ようやく、ちゃんと妻になれた気がします」
僕は、ペンを置いた。「いや、最初からあなたが妻だったんですよ」
内縁と法のすきまにて
書類の整合性を問われる毎日だけれど、本当に大切なのは、その行間にある想いだ。
今日もまた誰かの物語を拾い集める仕事に戻る。…やれやれ、、、冷めたコーヒーの味が少しだけ、沁みた。
司法書士のささやかな勝利
正義のヒーローにはなれないが、登記の裏で誰かを支える役にはなれる。
帰り際、サトウさんがポツリと呟いた。「たまにはいい仕事したって顔してますね」
…ま、たまにはな。サトウさんにそう言われたのが、今日一番嬉しかった。