登記の正確さよりも問われるのは人付き合いのスキル
司法書士の仕事は、とかく「正確さ」が求められる。書類一枚の記載ミスで、法務局からの補正が入り、クライアントからは不信感を持たれる。だから私は、登記申請書の一字一句に神経を尖らせている。しかし、それだけでは足りないのがこの仕事のやっかいなところだ。たとえ完璧な申請ができても、人付き合いがうまくいかないと、信頼されない。私が悩むのは、書類の難しさではなく、むしろ「人間の気持ち」のほうなのだ。
ミスゼロでも空気が読めないと信用されない
ある日、不動産の所有権移転登記を担当した。手続き自体は完璧に仕上げた。法務局も一発通過。しかし依頼人はなぜか不機嫌だった。「なんか先生、冷たいですね」と言われた。こちらは淡々と正確に処理しているつもりだったが、どうやら相手は「共感」や「安心感」も求めていたらしい。私は数字と条文の世界には慣れているが、表情や声のトーンで気持ちを察するのは苦手だ。空気を読むスキルのほうが、よっぽど登記法より難しいと感じる。
「先生は冷たい」と言われた日のこと
「冷たい」と言われたのは一度や二度じゃない。特に女性の依頼人からは、話を聞いてほしいという空気を察せず、書類ばかり見ていたら、あからさまに不満そうな表情になったことがある。相談室の沈黙が妙に長く感じた日もあった。言葉が足りないのか、気持ちが伝わっていないのか。正直、司法書士というよりカウンセラーに近い力が必要なのかと、悩んだこともある。私は理屈で動くタイプなので、「感情」に対応するのがとても疲れる。
正論が通じない現場のもどかしさ
「それは法律上できません」と伝えたとき、「なんでそんな冷たい言い方をするの」と返されたことがある。正しいことを言ったつもりでも、相手にとっては納得できない。「じゃあどうしたらいいか教えてくださいよ」と怒られたこともある。理屈では通じない現場に立たされるたび、私は戸惑う。こちらは敵意もなければ感情も挟んでいないつもりなのに、そうは受け取られない。結局、正しさよりも「言い方」や「雰囲気」がすべてなのだろうか。
事務所という小さな世界の人間模様
私の事務所は、私と事務員ひとりの小さな世界だ。人間関係は極めて近く、逃げ場もない。その分、ちょっとした気遣いが命取りになる。逆に言えば、気遣いができなければ居心地の悪さに発展する。登記のスキルよりも、「この距離感」をどう保つかのほうが難しい。特に、私は一度「気を遣いすぎて疲れるタイプ」として自己分析している。事務員に気を遣いすぎて、むしろ逆効果になってしまうことも多い。
事務員との距離感がわからない
たとえば事務員が静かにしていると、「機嫌が悪いのか」と不安になり、変に気を遣ってしまう。かといって、余計なことを話せば「仕事の邪魔をするな」と思われるのではないかとビクビクしている。仕事が立て込んでいるときほど、この距離感に悩まされる。もう少しドライに割り切ればいいのだが、どうしても人間味が邪魔をする。野球部時代の上下関係の感覚が抜けていないのかもしれない。
気を遣っても伝わらない「ありがとう」
ちょっとした差し入れや、疲れてそうなときに声をかけたことがあった。でも反応は「無言」だった。私の「ありがとう」は、届いていないのか、それともそもそも求められていないのか。考えすぎかもしれないが、受け取る側の気分次第で、こちらの気遣いは「重荷」にもなる。それでも感謝の気持ちを伝えたいとは思っている。だけど、言えば言うほど「うっとうしい上司」に思われている気がして、最近では黙るようになってしまった。
辞められる恐怖と気を遣いすぎる自分
事務員が辞めたら、事務所は回らなくなる。だからこそ、多少理不尽な言動も飲み込むようにしている。でもそれが蓄積して、こちらのメンタルが疲れてくる。何かを指摘したくても「辞められたらどうしよう」という不安が先に来る。気を遣いすぎて自分が壊れていく感じがする。登記の締切より、こっちの方がストレスだ。自分の立場が「経営者」である以上、この孤独感とは付き合っていくしかないのだろう。
孤独と向き合う司法書士という生き方
誰にも愚痴を言えない夜がある。友達も少なく、恋人もいない。仕事が終わったあと、コンビニで弁当を買って一人で食べる。そんな日常の中で、「なんのために頑張っているのか」と思う瞬間がある。孤独はたまにではなく、常にある。むしろそれが普通になっているのが怖い。人間関係で疲れ、登記で追われ、気づけば笑うことが減っている。
誰にも話せない悩みは山ほどある
経営のこと、依頼人とのやり取り、法務局との調整、事務員との関係。そのどれもが、一歩間違えればトラブルになる。だが、それを相談できる相手がいない。友人に話しても「大変だね」で終わるし、同業者には弱みを見せたくない。だから、どこにも出せないモヤモヤがたまっていく。時々、「もう全部放り出したい」と思うこともある。でも、それすら口に出せない自分がいる。
「先生はいいですね」と言われる虚しさ
依頼人から「先生は自由でいいですね」と言われたとき、苦笑いするしかなかった。確かに外から見れば、自由に見えるのかもしれない。でも現実は、締切と責任の山。休みの日にも電話は鳴り、何かあればすぐに対応しなければいけない。そんな生活のどこが自由なのか。笑って返しながらも、心の中では「何も分かってないな」とつぶやいていた。
本音を吐ける場所のなさがしんどい
カフェでたまたま隣に座った見知らぬおばあさんに、ふと愚痴をこぼしてしまったことがある。なぜか安心して話せた。人は、身近な存在には言えないことも、距離のある他人には言えるのかもしれない。でもそんな機会はめったにない。だからこそ、こうやって文章にして残すことに意味があると思っている。誰かの心に届けば、それで少し報われる気がする。
それでもやめない理由があるとしたら
時々、もう辞めたいと本気で思う。それでもやめないのは、たまに届く「ありがとう」の言葉のせいだ。ほんの一言でも、誰かの役に立てたという実感が、自分を支えてくれる。結局、私は誰かに頼られることでしか、自分の存在価値を確かめられない人間なのかもしれない。弱いと思う。でも、それでいいとも思っている。
感謝の言葉は一瞬でも心に残る
数年前、相続登記を手伝ったご高齢の女性から、「先生がいてくれてよかった」と言われた。その言葉は今でも忘れられない。作業としては単純な登記だったが、彼女の不安を取り除けたことが嬉しかった。登記そのものよりも、人の気持ちを軽くすることに意味があると知った瞬間だった。あの一言で、何度もくじけそうになった気持ちを立て直してきた。
自分の仕事で誰かの不安が軽くなるなら
今でも「誰かの不安を少しでも減らせたらいい」という気持ちはある。書類を出すだけの機械にはなりたくない。法律の知識を盾に上から話すのではなく、一緒に悩み、一緒に考える人間でいたい。それが正解かは分からない。でも、少なくとも私はそういう司法書士でいたいと思う。
野球部時代のしんどさが今につながっている
高校時代、炎天下のグラウンドで無言の上下関係に耐えていた。あの時、「理不尽さ」を学んだ。その経験が今の仕事にも生きている。納得できないこと、説明の通じないこと、そういう現場で折れずに踏ん張れるのは、野球部で鍛えられた心の筋肉のおかげだ。理屈じゃない、感情でもない、ただ踏ん張る。それが今の私の支えになっている。