恋愛履歴は全部閉鎖事項証明書です
閉鎖事項証明書の山ができるまで
恋愛ってやつは、まるで登記の世界と似ていると思うことがある。誰かとの出会いは「申請」、進展すれば「登記完了」、別れれば「閉鎖事項証明書」といったところか。僕の恋愛履歴なんて、もう全部閉鎖されたページばかりだ。もはや法務局に並ぶぐらいの厚さになっている。ときどきそれを見返しては、「なんでこんなに失敗続きなんだろう」と苦笑いするしかない。
あの頃の恋は仮登記だった
最初に付き合ったのは20代半ば。お互いに若くて、未来のことなんてろくに話し合わず、なんとなくで始まった関係だった。今思えば、あれは「仮登記」に近かった。本登記に必要な信頼や覚悟が足りてなかった。だけど、当時の自分は「このままうまくいくはず」と思っていた。希望的観測だけで申請して、結局取り下げられたようなものだった。
いつも本登記に至らない理由
僕の恋愛がいつも本登記に至らないのは、たぶん自分の仕事中心の生活スタイルと、妙に慎重な性格のせいだ。女性に対して距離を取りすぎてしまうし、「どうせ自分なんか」と思ってしまう癖がある。たとえ相手が好意を見せてくれても、僕は書類不備のようにすぐ自分にダメ出しをする。その結果、提出されることのない申請書のように、関係は自然消滅してしまう。
所有権移転請求すらできない関係性
一度だけ、本気で結婚を考えた人がいた。だけど、向こうのご両親に猛反対されて、あっという間に終わった。僕には「所有権移転請求」すらする資格がなかったのだと思い知らされた。司法書士という職業を語っても、年収や安定性の話になってしまい、そこに「人」としての魅力はあまり評価されなかった。切なかったが、それもまた一つの「閉鎖事項」だ。
失恋のたびに登記簿のページが増えていく
年を重ねるごとに、恋愛の履歴は増えていったが、どれも完了に至ったものはない。法務局で言えば、「完了証明なし、全部閉鎖事項証明付き」の状態。誰かにその履歴を見せられるわけでもないが、自分の中にはしっかり残っている。笑えるような話もあれば、思い出すたびに胃が痛くなるような記録もある。何よりも、「またか」とため息をつくのが恒例行事だ。
一度も添付書類がそろったことがない
恋愛がうまくいくには、気持ちだけじゃ足りない。タイミング、価値観、生活環境。まるで登記の添付書類みたいに、揃っていないと受理されない。僕の恋はいつもどこかが不足していて、揃える前に関係が終わってしまう。焦って準備しても後の祭り。まるで申請期限を過ぎた後に必要書類を思い出すような情けなさが残る。
証明書類は揃えたけど心は置いてきた
一時期、婚活に真剣に取り組んだこともある。年収証明書や独身証明書、提出する書類は揃えた。でも、心がそこに乗っていなかった。義務感と焦りだけで動いた結果、相手に対しても誠実とは言えなかった。当然ながらうまくいかず、その活動もまた「閉鎖事項」として僕の記録に追加された。
恋愛という案件に対する苦手意識
司法書士としての案件処理は冷静にこなせるのに、恋愛という案件になると僕は極端に自信をなくす。うまく話せないし、沈黙が怖くて変なことを言ってしまう。仕事ではあれほど気をつける「言葉の使い方」が、プライベートでは雑になる。恋愛に関しては、僕の中でずっと「未登記状態」が続いているようなものだ。
女性に対してはなぜか最初から共同担保の気分
人と付き合うとき、なぜか「負担をかけてはいけない」という気持ちが先に立ってしまう。まるで共同担保のように、自分の責任だけでは動けないと思い込んでしまう。これが恋愛を始める上でのハードルになっていた。相手がどう思うかではなく、僕が自分で「無理だろう」と先回りして諦めてしまう。損する契約しかしてこなかった自覚がある。
元野球部的アプローチが裏目に出る日々
高校時代は野球一筋。ストレート勝負の姿勢は今でも残っていて、変化球のようなアプローチができない。恋愛にもそのまま持ち込むから、うまくいかない。「好きです」と直球でぶつけて玉砕。しかもその失敗をずっと引きずるタイプだ。司法書士の仕事では、過去の記録を整理するのに慣れているのに、自分の恋の記録は一向に整理できない。
登記はスムーズでも恋は未完のまま
職場では登記申請をミスなく進めているのに、恋愛はずっと「未完了」のまま。恋人という肩書すら、ここ10年ほどは遠い存在になってしまった。書類で完了できる世界にいるからこそ、心の処理の難しさを痛感する。恋は申請できないし、誰かが受理してくれる保証もない。
仕事では間違えないのに恋では訂正印だらけ
登記申請書ではミスを避けるため何度もチェックする。けれど、恋愛では間違ってばかりだ。余計なことを言ったり、気持ちを伝えそびれたり。まるで訂正印だらけの原本のように、自分の中には修正跡ばかりが残っている。取り消したいセリフ、消したい表情。それでも訂正印では消せない後悔が、恋愛の記録には積み重なっている。
恋愛の添付書類に不足があるならそれは自信
相手と向き合うために必要なものは、肩書や収入ではなく、自分への自信なのだと思う。でも、僕にはその添付書類がいつも不足していた。書類は揃っても、気持ちがついてこない。それが相手にも伝わって、結局受理されない。恋愛における「自信」という書類を、まだ僕はどこかに取りに行く途中なのかもしれない。
閉鎖された履歴に今を重ねることのむなしさ
ひとり事務所に戻る帰り道、ふと空を見上げる。あの人と見た景色も、今はもう「閉鎖事項」だ。履歴の上に新たな案件が載ることはなく、ただ重ねていくだけの毎日。そこに虚しさを感じるときもある。でも、すべてを否定する気にもなれない。どれも自分の人生の一部だったのだから。
法務局にはある種の諦めを感じるときがある
申請が却下されたり、補正を繰り返しても通らないとき、法務局の職員もなんとなく「まあ、仕方ないですね」という空気を出すことがある。あれと似た感覚を、自分の恋愛にも感じるようになった。もうこれ以上無理に申請しても通らないだろう、という諦め。でもそれはどこか静かで、悪くない感情でもある。
仕事帰りに見上げる空と履歴事項の重なり
夏の終わり、夕暮れの空に一番星が見えたとき、なぜか昔の恋人の名前を思い出した。あのとき何をしていれば違った未来になったのか、もうわからない。ただ、今ここにいる自分は、その履歴の積み重ねでできている。閉鎖事項証明書だらけの心でも、それを抱えて歩いていくしかないのだ。
それでも次の案件を待っている自分がいる
諦めの中に、ほんの少しだけ残る希望。それが僕の中にあるから、今日もまた仕事をしている。恋愛の履歴は閉鎖ばかりかもしれないけれど、まだ次の登記申請書を出せるかもしれないという気持ちはある。書類不備だらけの人生でも、次こそは受理されるかもしれない。そんな淡い希望を、僕は手放していない。
恋も仕事も一件落着より未了が多いけれど
司法書士の仕事は完了報告があるけれど、人生にはない。恋愛も然りだ。終わった恋も、未練という未了案件になって、いつまでも心に残っている。けれど、そういう未了があるからこそ、人は次に進めるのかもしれない。僕の人生は、たぶん未了だらけで正解なのだ。
閉鎖事項にも価値があるという気づき
閉鎖された恋の履歴にも、意味はある。失敗の連続でも、それが今の僕のやさしさや慎重さを育ててくれた。司法書士として、誰かの人生の節目を支える仕事をしている中で、自分の節目もまた「価値ある閉鎖」だったのだと思えるようになった。だから、今日もまた、次の申請書を抱えて歩いていこうと思う。