毎日のお昼が自己責任になるという現実
司法書士という仕事は、気づけば昼休憩もままならない日が多い。誰かと一緒に「今日は何食べる?」なんて会話はまずない。昼食は、あくまで「空腹を満たすための工程」になってしまっている。そして、そんな中で3日連続で冷やし中華を選んだという現実は、どこか自分の生活の歯車が狂っている証のようにも感じる。選んでいるようで、選ばされている、そんな感覚すらある。誰にも止められないこの昼の習慣、誰かに止めてほしいと思う自分もいる。
コンビニの棚で思考停止するまでの流れ
朝からバタバタと依頼人対応や法務局への書類確認。そんな慌ただしい午前を終えて、時計を見ればもう13時半。外に出るのも面倒で、いつものコンビニに駆け込む。頭は完全にオフになっていて、もはや目の前の棚の中身を吟味する気力もない。ただ手を伸ばしやすい位置にある冷やし中華を手に取るだけ。それが連続の始まりだった。気づいたらカゴに入れていた、それくらいの無意識さで、昼食が決まっていくのが悲しい。
1日目は選んだつもりだった
初日は、「今日は暑いし冷たいものにしよう」と、なんとなく冷やし中華を選んだ。特に意識せず、ただの気まぐれ。たまたまその日の気温が高くて、そばやうどんの気分ではなかった。それだけの理由。でもその時は「今日は冷やし中華にしてみるか」と、自分で選んだ感覚があった。ほんの小さな決断でも、人は理由づけして納得しようとする。あのときの俺も、自分の小さな意思を肯定していた。
仕事が立て込んでいた日の妥協の選択
その日、午前中に2件の相談と書類作成、午後には登記の締め切り。とても昼をじっくり選ぶ余裕などなかった。だから「冷やし中華にしてみるか」という選択は、実は妥協の産物だった。ゆっくり弁当を選んで食べることすらできないという現実が、俺の昼食を冷やし中華に導いたのだ。暑さも言い訳のひとつにすぎなかった。
2日目は考えるのをやめていた
2日目になると、もう思考放棄だった。昨日と同じように疲れてコンビニに立ち寄り、昨日と同じ場所に手を伸ばした。体が勝手に動いたと言っても過言ではない。選んでいるという感覚すらなかった。むしろ「昨日と同じでもまあいいか」と、考えること自体が面倒になっていた。昼食ですら惰性で決まる日常に、自分で自分が情けなくなった。
昼休みの短さと気力のなさの勝負
たとえば、もっとおいしい店に行くとか、違うメニューにチャレンジするとか、ほんの少しでも心に余裕があればできたはず。でもその日は、事務員が休みで事務所には俺一人。電話が鳴るのを気にしながら、急いで戻らないとという焦りが頭から離れなかった。食事を楽しむ余裕もなければ、挑戦する気力もない。そんな状況では、無難で前日と同じ冷やし中華が勝ってしまう。
3日目は罪悪感との和解
3日連続になった時点で、「さすがにどうなんだ」と心のどこかでツッコミが入る。だが、もう冷やし中華をカゴに入れた手は止まらなかった。自分を慰めるように「まあこれ好きだし」とつぶやく。罪悪感はある。でも、それすらも包み込んでくれる冷やし中華の存在が、妙に優しく感じてしまう自分がいた。ここまできたら開き直るしかない。
冷やし中華に何を求めていたのか
本当は、冷やし中華が好きなわけでもない。ただ「簡単」「冷たい」「無難」だから選ばれていた。でもその中に、もしかしたら少しだけ「変わらない安心感」みたいなものを求めていたのかもしれない。日々が忙しくて、予定外のことに対応しきれない毎日の中で、せめて昼食だけは「昨日と同じ」であることが救いになっていたのかもしれない。
同じ昼食に感じたわずかな変化
3日も続けて食べれば、少しずつ違いが見えてくる。具材の並びやスープの濃さ、麺の弾力。細かい違いに気づいてしまう自分に、どこか哀愁を感じた。「今日の方が少ししょっぱいな」とか「この店の方が錦糸卵が多いな」など、比較している自分がいた。冷やし中華を通じて得たものは、もしかすると、ささやかな感受性の復活だったのかもしれない。
スープの味も具材も微妙に違う
同じコンビニでも日によって業者が違うのか、具材の配置やタレの風味が微妙に違う。昨日のはゴマだれっぽかったけど、今日は酢が強め。さすがに同じ味ばかりだと飽きるが、微妙な違いを見つけては、「これはこれでありか」と思い込もうとする自分がいた。その微差が、日常の中の楽しみとして成り立っていたのかもしれない。
でもそんな細かさに気づく自分が悲しい
「昨日のよりうまいかも」と思いながらも、そんな違いに敏感になっている自分に気づくと、どこか悲しくなる。もっと違うことに神経を使いたい。たとえば、もっと気の利いた会話とか、余裕のある働き方とか。なのに、俺が敏感になっているのはコンビニ冷やし中華の味の違いだ。なんだかもう、人生のズレを感じずにはいられない。
自己観察癖は誰も得をしない
「俺、何やってんだろうな」って、ふと冷やし中華をかきこんでいる途中に思った。味の違いを気にするのは、悪いことじゃない。でも、それに一喜一憂している自分に、少し疲れてしまった。そんな観察をしても、誰かがほめてくれるわけでもないし、意味があるわけでもない。ただ、言葉にしてみたくなるだけだ。
それでも明日もたぶん冷やし中華
ここまで語っておいてなんだけど、多分明日も冷やし中華になる気がする。理由はもう明確で、「他に選ぶ気力がない」から。変化より安定を選ぶこの行動が、今の自分の状態を如実に表している。元気なときは、もっと冒険していた気がする。でも、今は違う。明日も同じ棚に手を伸ばす気がしてならない。
変える勇気より慣れが勝つ
変えようと思えば、変えられる。でも、それにはエネルギーが要る。冷やし中華が悪いわけじゃない。ただ、「またか」と思いながらも選ぶ自分の姿勢に、ちょっとした情けなさを感じる。そしてそのまま、いつもの事務所でひとり食べる冷やし中華。それでも、誰にも文句を言われない自由がある。この自由の代償は、ちょっとした虚しさだ。
忙しさに流される日常
昼食だけじゃない。いろんなことが、流れ作業のように繰り返される毎日。やるべきこと、締め切り、電話、相談。気づけば、自分の意志で何かを選ぶということが少なくなっている。冷やし中華3連チャンは、たかが昼食、されど象徴的だったのだと思う。
ちょっとしたことにも疲れてる証拠
本当は、冷やし中華を3日連続で食べるなんてどうでもいい話。でも、それをこうして記事にしてしまうほど、心のどこかが疲れている証拠かもしれない。小さなことをネタにせずにはいられないこの感じ。それが、今の俺の等身大なのだと思う。