午前十時の依頼人
事務所のドアが重たい音を立てて開いたのは、ちょうどコーヒーを入れようとしていたときだった。 見慣れないスーツ姿の男が、やけに丁寧に頭を下げながら、厚手の封筒を差し出してきた。 「信用金庫さんからの紹介で…こちらの登記をお願いしたいのですが」と、その男は目を泳がせながら言った。
地元信用金庫からの紹介
名前を聞いてもどこか腑に落ちない。紹介状はあったが、担当者名が空白だったのが気になる。 封筒を開くと、中には三通の売買契約書。どれも一見きちんとした体裁だ。 だが、そのどれにも不自然に押された印鑑が見当たらなかった。署名はあるのに、印影がない。
封筒に詰められた未完の契約書
「印鑑は…後日届く予定でして」と、依頼人が曖昧に笑う。 そんな話、まともな取引では聞いたことがない。 どこかで見たぞこの展開…そうだ、昔のサザエさんで波平が印鑑忘れてカツオに怒鳴られていたっけな。
署名はあるが印がない
契約書には確かに署名があった。だが、どの通にも押印欄が白紙。 不動産売買でこれは致命的だ。第三者が偽造した可能性すらある。 「…確認のため、筆跡を照合します」と伝えると、依頼人は急に汗をかきはじめた。
契約書三通の矛盾
三通のうち、二通は明らかに同じ人間の筆跡だった。 だが、残る一通だけ微妙に角度や癖が違う。サトウさんが黙ってルーペを取り出した。 「これ、たぶん別の人が書いてますよ」と、迷いなく断言した。
筆跡と印影の微妙な違い
筆跡鑑定は正式にはできないが、現場ではある程度の勘がものを言う。 ただの誤記ならともかく、これが第三者名義で押印されれば大問題になる。 すでにこの男の背後に、何かしらの「意図」が見え隠れしていた。
サトウさんの冷静な観察
依頼人が帰った後、サトウさんが机の上の契約書を指でなぞった。 「これ、朱肉じゃないですね。インクジェットの色に近い」 一見して普通の契約書に見えるが、騙すつもりで作った感が拭えない。
「これ、インクの乗りが違いますね」
彼女が示したのは、印影部分の微妙なにじみ。通常の朱肉ならもっと均等に広がるはずだった。 「市販のコピー機で捺印された疑いがあります」 それが事実なら、この契約は虚偽の可能性が高い。
朱肉ではない赤
その赤は、どこか不自然な艶があった。 古い朱肉なら乾燥して粉っぽくなるが、この印影にはそれがない。 しかも、紙の裏まで滲んでいないのが決定的だった。
不動産業者の沈黙
契約書に記載された仲介業者に電話をすると、受話器の向こうで数秒の沈黙があった。 「…その契約、まだ未成立のはずですが」 どうやらこの依頼人、何かを先走って登記だけを済ませようとしていたようだ。
なぜ彼は同席しなかったのか
売主本人に話を聞こうとしたが、既に高齢で施設に入所中だった。 代わりに連絡してきたのは、甥を名乗る男。しかし、名前が契約書の立会人と一致しない。 どんどん話が怪しくなっていく。
謎の立会人と偽名
立会人の名前を調べると、過去に何件か司法書士への偽装登記未遂で関与していた前科者だった。 写真付きの証拠資料を確認し、背筋が冷たくなる。 この登記、完全に計画された虚偽の書類だ。
古い登記簿の落とし穴
該当不動産の過去の登記簿謄本を見直すと、ある細工に気づく。 相続による移転登記がされておらず、被相続人のまま数十年が経過していた。 ここに目をつけた詐欺師が、便乗して登記申請しようとしていたのだ。
数年前の相続登記に仕掛けられた罠
手続きが途中で止まっていたことが、この混乱を許した。 しかも、法定相続人が多く、権利関係が複雑で確認しづらかった。 そこを狙ったとすれば、かなり周到な犯行だった。
「名義は動いていないが、動かされた」
言葉のとおり、実際には移転していないが、書面上は所有者が変更されたかのように装っていた。 地元の役場にも照会したが、本人確認書類も偽造されていたという。 登記の“空白”を突いた犯罪だった。
印鑑証明書の流用
依頼人が提出した印鑑証明書を確認すると、住所の番地が微妙に違っていた。 「これ、転記ミスじゃなくて意図的に書き換えたものですね」とサトウさんが言う。 つまり、本物の証明書をスキャンして、加工している可能性が高い。
不一致の登録番号
証明書の右上に記載された番号が、区役所の照合結果と一致しなかった。 これは完全にアウトだ。証明書自体が偽物と判断できる。 あの依頼人、逃げ切れると思っていたのだろうか。
過去の印鑑届と今の謎
さらに掘り下げると、数年前に別件で似た手口の登記申請があったことが判明。 印鑑の傾きや押し方が酷似しており、同一犯の疑いが強まる。 警察にも連携を取り、資料を提出する準備に入った。
夜の法務局での逆転
その夜、急ぎで法務局に走り、同じような筆跡と印影を含む物件を照合した。 そこに出てきたのは、まさにあの男が関与した別の不動産だった。 やれやれ、、、またしても同じ奴か、と独りごちた。
別の物件で同じ印影が
照合結果はほぼ一致。これで証拠は揃った。 翌朝、法務局に事情を説明し、登記は却下された。 あの依頼人が再び事務所を訪れることはなかった。
真犯人の動機と失敗
結局のところ、犯人は所有権移転登記を利用して、不正に不動産を転売するつもりだったらしい。 だが、詰めが甘かった。サトウさんの観察眼と、一通の印鑑証明書がそれを止めた。 犯人はその後、偽造文書の使用で逮捕されたと連絡があった。
詐欺師が踏んだ一行の余白
最後の契約書に、なぜか余白が妙に広く取られていた。 そこに別の筆跡が小さく書き加えられていたことが、すべての発端だった。 悪意は、往々にして小さな違和感から滲み出すものだ。
サトウさんの無表情な一言
事件が一段落し、サトウさんがコーヒーを飲みながらつぶやいた。 「登記に命かける人って、変な人多いですよね」 まあ、同意しかけて、思わず笑ってしまった。
「あの人、契約書読んでませんね」
最初の依頼時、契約条項を読み上げたときのあの反応が、すべてを物語っていた。 サトウさんは無表情のまま、ファイルを閉じる。 僕はその手元を見ながら、まだ何かある気がしてならなかった。
結末と残された地獄絵図
事件は片付いたが、封筒の中に残された白紙の印影欄が、不気味にこちらを見ていた。 たったひとつの判が、どれだけの人を惑わせるのか。 登記の世界には、まだまだ地獄絵図が隠れている。
契約は戻り、だが何かが壊れた
権利は戻った。だが、関係者の信頼や時間は取り戻せない。 司法書士としての仕事は果たしたが、どこか虚しさが残る。 朱肉を片付けながら、サトウさんは無言だった。
サトウさんは朱肉を静かにしまった
音もなく閉じられた蓋の音が、やけに重たく感じた。 今日もまた、うっかり始まり、ギリギリのところで踏みとどまった一日だった。 やれやれ、、、疲れるけど、これが僕の仕事なのだ。