遺産分割協議のはじまり
午前10時。コーヒーの香りが事務所に立ち込める中、分厚い戸籍謄本を抱えた依頼人が椅子に沈み込んだ。
「兄が遺産のすべてを持っていったんです。遺言書があったらしいんですけど…」
うつむいたまま、絞り出すような声だった。これはまた、ややこしいパターンの予感がする。
依頼人は涙をこらえていた
兄弟間の争いは、金額よりも感情の問題の方がやっかいだ。
法的には遺留分の侵害があれば請求できるが、感情に折り合いをつけるのは容易ではない。
僕は依頼人の前に座り、深いため息をついた。「まずは遺言のコピーを見せてもらえますか?」
登記簿に映らぬもう一人の相続人
依頼人が提出した資料には、確かに兄名義への所有権移転登記が完了していた。
だが、そこに違和感があった。どう考えても、もう一人の弟が存在するはずなのに、彼の名前がどこにも見当たらない。
「戸籍、全部取ってきてくれる?」とサトウさんに頼むと、「当然ですね」とだけ返ってきた。
戸籍の網をかいくぐる影
戸籍の改製原戸籍に、消えかけた筆跡で一人の名前が浮かんだ。
これは…異母兄弟?いや、認知されていないだけか。いずれにせよ、相続人には該当しない。
だが気になる。なにか引っかかる。小五郎のおっちゃんみたいにポンと閃けばいいのだが。
兄弟間の確執と一通の封筒
事件は茶封筒から始まった。
「実家の仏壇に置いてあったんです」と依頼人が差し出したのは、手書きの遺言の写し。
そこには「長男にすべてを相続させる」とだけ書かれていた。印鑑も証人もなかった。
サトウさんの鋭い一言
「この遺言、無効ですよ。自筆証書遺言としての要件を満たしてません」
バッサリとサトウさんが断じた。僕の出番が半分減った気がしたが、的確な指摘だった。
問題は、それを根拠に遺留分侵害請求をどう通すかだ。
やれやれ、、、これは簡単じゃなさそうだ
僕は頭をかきながら机に沈み込んだ。
仮に遺言が無効でも、登記はすでに完了している。となれば、登記の抹消と遺留分の請求がセットで必要になる。
それにしても、こういうときに限って法務局の予約がいっぱいなんだよなあ…。
印鑑証明の不在が示すもの
法務局で取得した登記申請書の写しには、兄の印鑑証明書だけが添付されていた。
つまり、相続人全員の同意書がないまま進められた単独申請だ。
こりゃますます怪しい。兄が勝手にやったとしたら、それなりの代償を払ってもらう必要がある。
亡き父の机の引き出し
実家に赴いた依頼人から電話があった。「父の机に封印された封筒があったんです」
急いで現地に行くと、そこには昭和レトロなインクの匂いが残る封筒と、古い銀行の通帳。
そして、しわしわの手で書かれたもう一通の遺言書が見つかった。
発見された破れた遺言書
日付も署名もあり、印鑑もかすかに残っていた。
だが、破れた下半分には「二男にも相応の遺留分を渡すこと」と記されていたはずの部分が欠落していた。
「これ、鑑定できませんかね」と僕が言うと、サトウさんがポケットからスマホを出し、すでに鑑定人を手配していた。
遺留分侵害請求のトリガー
通帳の中には、長男が父の死後すぐに引き出した形跡のある高額の預金移動が記録されていた。
遺留分侵害の立証に足る材料は揃った。
あとは粛々と、法のとおりに請求書を出すだけだ。
争族劇の幕が上がる
内容証明が届いた瞬間、長男から「ふざけるな」という電話がかかってきた。
「ふざけてるのはどっちですかねぇ」と思いつつ、淡々と手続きを進める。
司法書士ってのは、劇の外側で脚本を書いてるようなもんだ。
司法書士としての限界と覚悟
弁護士でなければ代理交渉はできない。だから僕たちは法の枠内でしか動けない。
だが、依頼人の心の整理を手助けするのもまた、僕らの役目だと思っている。
「勝つとか負けるとかじゃないんですよ。納得できるかどうかなんです」と依頼人に伝えた。
法の隙間に揺れる正義
制度はある。だが、それを使うのは人間だ。
法律は万能じゃない。そのことを、僕も依頼人も兄も、身をもって知ることになる。
そしてその中で、少しでも誠実でいられるかが問われる。
事件はサザエさんのように日常から
「ところでサトウさん、あの通帳の記録、どうして気づいたの?」
「カツオくんの小遣い帳よりも雑だったからです」
やれやれ、、、サザエさんの家庭の方が、よほど透明性があるらしい。
茶の間の会話がすべてをつなぐ
母がポロッと話した「あのお金はお父さんのじゃなかったのよね」という一言が、兄の嘘を暴いた。
会話の断片が、事件の核心を突いたのだ。
謎を解く鍵は、いつも身近なところにある。
最後の登記申請書
全員の合意のもと、遺留分相当の現金を支払うことで決着がついた。
僕は分割協議書を作成し、登記の修正申請を提出した。
手続きとしては地味だが、依頼人の安堵の表情がなによりだった。
あの日の筆跡が決め手だった
鑑定結果では、破れた遺言書の筆跡が父のものであると証明された。
消えた印影、かすれた朱肉、そして父の想いが法的効力を持つ形で甦った。
それがこの事件の真の解決だったのかもしれない。
サトウさんは振り返らない
「終わりましたね」
一言だけ告げて、サトウさんはすっと立ち上がり、机に戻った。
僕はその背中を見送りながら、また次の依頼が待っていることにため息をついた。
ただひとこと終わりましたね
やれやれ、、、僕の出番はやっぱり最後なんだな、と独り言ちた。
でもまあ、誰かの人生のページが静かに閉じられる瞬間に立ち会えるのも、悪くない。
明日もまた、依頼人がドアを開ける音で、物語が始まる。