静かな午後と唸る機械音
午後の事務所は、いつも通りの静けさに包まれていた。エアコンの低い唸りと、キーボードを叩く音。時折、外から聞こえる蝉の声が、この夏の午後を際立たせていた。
そんな中、突如として響いたのは、耳慣れた機械音だった。ガガガッという重く唸るような音――シュレッダーが紙を飲み込む音だ。だが、その音はどこか、いつもより重たく、執念深いように感じられた。
私は顔を上げたが、誰が使っているのか見えなかった。ただ、事務所の奥で何かが始まったような気がして、嫌な予感が胸をよぎった。
不意に響いたシュレッダーの唸り
「またサトウさんが帳票でも片付けてるのか」そう呟いてみたが、机の向こうでサトウさんは首を横に振った。
「私じゃありません。……それに、今の音、少し変でした」冷静な声が、より不安を煽る。
私は椅子を立ち、機械音の発信源へと歩を進めた。その音は、応接室の脇にある古いシュレッダーからだった。
依頼人は誰よりも口が堅かった
数時間前、やってきた依頼人は、どこか堅苦しいスーツを着た初老の男性だった。昔ながらの銀行員を思わせる雰囲気で、口数は極端に少なかった。
相続登記の依頼ということで、必要書類一式を封筒に詰めて持参してきた。封筒は少し膨らんでいて、なにやら念がこもっているようだった。
「こちらで間違いありません。処理はお任せします」男はそう言って深々と頭を下げ、すぐに帰っていった。
封筒に詰まった相続にまつわる話
開封してみると、戸籍、印鑑証明、そして相続放棄申述書の控えが入っていた。形式的には問題ないように見えた。
だが、妙に念押しされて渡されたせいか、どこか胸の奥にひっかかる感覚が残った。
私は一応、控えをスキャンしておき、原本は書類棚にしまった……つもりだった。
消えた書類と残された封筒
翌日、書類棚を開けてみると、その封筒が丸ごと消えていた。サトウさんに確認しても、触っていないという。
その代わりに、ゴミ箱の中に裁断された紙屑の山があった。文字の断片が散りばめられた切れ端。そこには、依頼人の名字らしき一部が見えていた。
「あのシュレッダー、誰かが使いましたね」サトウさんの声は静かだったが、明確な疑念が含まれていた。
私の机の上に置かれた謎の封筒
その日の昼、私の机に新しい封筒が置かれていた。誰が置いたのかは不明。中には、先日とは別の申述書が入っていた。
内容は似ているが、筆跡が違っている。そして、日付が数日前になっていた。
まるで、書類をすり替えた誰かが、それを証明しようとしているかのようだった。
過去帳の中に隠された名前
登記簿の旧記録を辿っていくうちに、一つの名前が目についた。相続人の中に、どう見ても年齢的に不自然な人物が含まれていた。
しかも、その人物はすでに20年前に亡くなっていた。死亡診断書の写しまで存在している。
だとすれば、今回の申述書は虚偽……いや、改ざんされている可能性がある。
元所有者の死亡時期とずれた印鑑証明
提出された印鑑証明の発行日が、元所有者の死亡日よりも後だった。これは明らかに矛盾している。
本来あり得ない話だが、役所側が気づかず発行してしまったのか、あるいは……。
私は背筋が冷たくなるのを感じた。誰かが意図的に事実を塗り替えている。
一枚のコピーと紙屑の山
サトウさんがPCのスキャン履歴を調べてくれた。そこに一枚、先日スキャンした控えが残っていた。
紙屑の中の断片と照合すると、それは確かに破棄された原本のものだった。
誰かが私たちの目を盗んで、原本を破棄し、書き換えたコピーを置いていったのだ。
裁断前に印刷された一枚の謎
印刷履歴にも不自然なログがあった。私が席を外していた時間帯に印刷された一枚。
中身は改ざんされた相続放棄申述書だった。
犯人は、封筒を回収し、偽の申述書を印刷・差し替え、原本をシュレッダーにかけたのだ。
疑惑の相続放棄申述書
問題の申述書を精査したところ、書式も少し古かった。まるで過去の文書を写してきたかのようだった。
そして、添付された委任状の住所に違和感があった。存在しない番地だったのだ。
「これは……誰かが過去の資料をコピーして悪用したな」私は声を落とした。
筆跡は依頼人のものか
筆跡を照合する資料はなかったが、サトウさんがさりげなく机上の来所記録に残していたメモが手がかりになった。
そこに記された走り書きの署名と、今回の申述書の筆跡が一致していなかった。
依頼人が提出したのではない――誰かが依頼人を騙って、申請しようとしていた。
旧知の司法書士の名が浮かぶ
古い登記の委任状に、私が見覚えのある司法書士の名前が記載されていた。かつて同じ事務所で助手をしていた人物だ。
不祥事で業務停止を受けた過去がある。私はそのときも、どこかやるせない気持ちになった。
そして今、また同じようなにおいが漂っていた。
そしてある裁判記録の写し
市役所で閲覧した民事記録の中に、今回の依頼人の名前があった。遺産を巡って係争中だったのだ。
つまり、偽の申述書を出すことで、他の相続人の権利を奪おうとしていた可能性が高い。
そしてその計画は、たった一枚の裁断しそこねた書類から崩れていった。
サトウさんの冷静な一言
「証拠を飲んだのは、シュレッダーじゃありません。人間ですよ」
サトウさんは背筋を伸ばしながら、淡々とそう言った。
私は思わず笑ってしまいそうになるのをこらえ、「やれやれ、、、まるでサザエさんのカツオが作文を誤魔化すために紙を食べた話みたいだ」と呟いた。
紙の在処と依頼人のもう一つの顔
依頼人の正体は、相続人ではなかった。他人になりすまして不動産を騙し取ろうとした詐欺師だった。
その後、警察に引き渡され、事件は新聞の片隅に小さく載った。
そして今日もまた、私たちは静かな事務所で新しい依頼を迎えるのだった。