朝の封筒とサトウさんのため息
朝の事務所には、いつものようにコーヒーの香りとコピー機の音が漂っていた。ぼんやりしていた僕の机に、サトウさんがぽんと茶封筒を置いた。いつもの書類の山に紛れたその封筒だけが、どこか異質だった。
「それ、今日届いたやつです。ちょっと分厚いですよ」
そう言い残して席に戻るサトウさんの口調には、微かな警戒心がにじんでいた。
届いた分厚い郵送書類と妙な違和感
封筒を手に取ると、重みがある。分厚い書類の束が詰め込まれているようだったが、重さの感触がどこか金属的だった。司法書類にこんな感触はあり得ない。
開けてみると、確かに申請書の束が入っていた。が、ページの途中で何かが引っかかった。そっと指を滑らせると、硬い感触があった。
一枚めくった瞬間、金属の光が見えた。
紙の重みに隠された異物
ナイフだった。刃渡りは五センチほど、カッターのように細身で、折りたたみできるタイプだ。まるで書類に挟むことを前提にして作られたような、異様な形状。
「これ、仕込みましたよね。誰かが」
背後から聞こえたサトウさんの声は、明らかに冷静すぎた。僕はその目線から逃れるように、ナイフを封筒に戻した。
契約書の間からのぞく銀色の影
何かのメッセージか、それとも警告か。僕の頭の中には、過去に扱った幾つかのきな臭い案件が浮かんできた。
「送り主、分かりますか?」
「差出人の名前は“田上正人”。見覚えは、、、あるような、ないような」
警察を呼ぶには微妙な刃の存在
ナイフといってもカッターサイズ、怪我もしていない。警察に通報すれば、逆に「悪戯」で済まされる可能性も高い。
「やれやれ、、、どうしてこういうのは、月末の忙しい時に届くのかね」
僕はナイフの入った封筒をそっと引き出しにしまった。
やれやれ、、、この程度で大騒ぎもできない
警察沙汰にすれば、こっちの仕事にも支障が出る。最悪、依頼人にも変な噂が立つ。司法書士の看板はそう簡単には守れない。
だからといって、放置するには気持ちが悪すぎる。
「調べるしかないな。田上正人、だっけ?」
差出人の不自然な名前
名簿を確認すると、三年前に一度だけ“田上正人”という名で登記相談を受けていた記録があった。だが、それは途中で依頼がキャンセルされた案件だった。
「あれ、これ、、、兄弟名義での不動産分割の相談だったやつですよ」
サトウさんが古いファイルを持ってきた。彼女の記憶力にはいつも驚かされる。
法務局の封筒なのに郵便局の消印が無い
封筒をもう一度見ると、確かに法務局のロゴが印刷されている。が、妙に偽物っぽい。消印もなければ、宛名の筆跡も印刷で統一されていた。
「これは明らかに偽造封筒ですね。自作した感じ」
「となると、送り主は“本物の田上”じゃない可能性も、、、」
元依頼人に残された空白
記録によると、田上家の登記は途中で頓挫し、その後弟が失踪していたことがわかった。相続放棄の書類も未提出のままだ。
つまり、この書類とナイフは――弟から、という線が出てくる。
「警告じゃなくて、告発、、、なのかもしれません」
相続放棄届と共に消えた兄妹
僕が作った相続放棄の草案には、長男にとって不利な記載があった。それを見た弟が、自分の身を守るために姿を消した。そして今、何かのきっかけで戻ってきた。
紙と刃で。
それは「言葉を失った者」の最後の手段だったのかもしれない。
サトウさんの冷静な推理
「このナイフ、本当に危害を加えるつもりだったら、もっと違う方法があるはずです。これ、相続の証拠と見せてるんです」
「刃物が“動機の象徴”だとしたら、、、弟が兄に何をされたかを象徴してるってことか」
サトウさんは頷いた。
「これは脅しじゃなくて、警告ですね」
「それも、自分じゃなくて、あなたに向けての」
僕はぞくっと背筋に冷たいものを感じた。
言葉にできない真実が、紙の間に静かに横たわっていた。
封筒を出した人物の正体
数日後、地元の公民館で開かれた無料相談会に、フードを深くかぶった男が現れた。声は低く、目は合わせなかったが、手渡された封筒の筆跡は間違いなかった。
「あの件は、、、もう、終わらせたいんです」
弟だった。田上正人の。
偽装登記を阻止した過去の依頼事件
彼は語った。兄が勝手に名義を変えようとしたこと、親の遺言を握り潰したこと、自分がその証拠を握っていたこと。
「でも、自分で告発する勇気はなかった。ただ、、、記録にして、誰かに気づいてほしかった」
その言葉の最後に、微かに震えがあった。
元依頼人の弟が語った後悔
「司法書士さん、あなたなら、、、間違いを正してくれると思ったんです」
僕は何も言えずに頷いた。ナイフが象徴していたのは、切れなかった家族の絆だったのかもしれない。
彼は静かに立ち去り、もう振り返らなかった。
紙に仕込んだ刃は「自白」の代わりだった
事件にもならず、名前も記録に残らなかった。それでも、彼の“刃”は、確かに僕の胸に突き刺さっていた。
サトウさんが静かに告げた。「これで、彼の心も少しは軽くなったでしょうか」
僕は答えられなかった。
真実は裁判所より先に紙に刻まれた
僕はナイフをそっと引き出しに戻した。証拠にもならず、使うこともできない、けれどたしかな重みをもった“声”として。
登記は未完のまま、事件も起きていない。でも僕の中では、ひとつの結末が刻まれていた。
司法書士という職業は、時に記録係であり、記憶係でもある。
刃物の正体と最後の謝罪
後日、兄の名義の不動産は裁判所の判断により取り消されることになった。弟の名は記録には残らなかったが、すべてが戻るべき場所へ戻った。
「少しは、役に立てたかな」
誰にともなく呟いたその言葉に、サトウさんは答えなかった。
事件は終わり、仕事は山積み
引き出しの中のナイフは、もうただの鉄のかけらになった。けれど、あの朝届いた封筒の重さは、今も忘れられない。
電話が鳴る。相続の相談だった。
「やれやれ、、、もうちょっと静かな日が来ないものかね」