自分らしくって何だろうと考える朝
「自分らしく生きたい」なんて、よく聞くけど、じゃあ自分らしさってなんなんだろうなって、朝の歯磨き中にぼんやり考えたりする。寝癖のままの髪、くたびれたスーツ、曇った鏡に映る顔。そんな自分を見て、「これが自分らしさか?」と聞かれたら、即答できない。地方で司法書士をやっていて、日々の業務に追われる毎日。自分らしくなんて言葉が、なんだか遠い世界の話のように感じる瞬間がある。朝からそんなこと考えてる時点で、自分らしく生きるってなんかめんどくさいなって思ってしまう。
人の目を気にするクセが抜けない
結局のところ、自分らしさなんて他人の目から自由じゃないと見えてこないのかもしれない。でも俺は昔から、人の目が気になって仕方がないタイプだ。高校時代の野球部でも、どんなプレーより監督の顔色を気にしてた。今もそう。相談者の言葉の裏を読み、裁判所の職員の反応を気にし、ネットに載せる文章一つとっても「こう見られたらマズいかな」と考えてしまう。「人からこう思われたい」という欲求が、自分らしさの邪魔をする。それでも、どこかで“ちゃんとしてる風”な自分を保たないと、崩れてしまいそうで怖い。
そもそも「らしさ」って誰が決めたのか
思えば、「自分らしさ」って言葉そのものが厄介だ。他人から「あなたらしいね」って言われて嬉しかったこともあるが、それって本当に自分なのか? 誰かが勝手に描いた「それっぽさ」に自分を当てはめてるだけじゃないのか? 昔、親戚の集まりで「イナガキくんは真面目で几帳面だね〜」と言われたことがあった。その一言がずっと脳裏に焼きついていて、どこかで「そうあらねば」と思ってしまう。それ以降、ミスを恐れて動けなくなったり、「いい子」でいることに疲れたり。誰が決めた「らしさ」なのか、問いかける暇すらない。
比べる相手が多すぎて自分が見えない
SNSなんか見ていると、同業の司法書士が「自分らしく自由に働いてます!」とか「週休3日で月商100万円突破!」なんて投稿してて、つい比べてしまう。自分はというと、週休1日で書類と格闘して、クタクタになりながらカップ麺すする夜。「何かが違う」と思いながらも、じゃあ自分が何をしたいかはわからない。比べる相手が多すぎて、自分の声が聞こえなくなってる。野球で例えるなら、他人のバッティングフォームばかり真似して、どれが自分のスイングかわからなくなってるようなもんだ。
司法書士としての肩書に押しつぶされそうになる
司法書士という肩書があることで、逆に自分を縛っている気がする。「ちゃんとしなきゃ」「ミスは許されない」「専門家らしく振る舞わないと」……そんな思考が無意識に染みついてしまってる。正直、疲れる。書類ひとつ間違えるだけで全否定されたような気持ちになるし、相談者からの信頼にプレッシャーを感じる。肩書が自分を守ると同時に、押しつぶしてくる感覚。そんなとき、自分らしくって何?と、また立ち止まってしまう。
立派に見せたい気持ちが邪魔をする
誰かに認められたいという気持ちは、きっと誰にでもある。でもそれが強すぎると、自分を偽る癖がついてしまう。例えば、相談のときに本当は知らないことでも「まあ、だいたい把握してます」と口にしてしまう。あとで慌てて調べて、冷や汗をかく。そんなことを繰り返してるうちに、どんどん自分から遠ざかっていく。立派なふりをしてるうちに、本当の自分の声が聞こえなくなる。「ちゃんとした人間像」なんて、どこにもいないのにね。
資格があるのに自信がない矛盾
司法書士という資格を取ったとき、「これで胸を張って生きていける」と思った。でも現実は、資格があっても不安は尽きない。特に独立してからは、全部ひとりで背負うことになる。失敗すれば信用を失い、収入にも響く。周囲からは「すごいね」と言われても、内心では「明日、仕事が来なかったらどうしよう」と毎日思ってる。自信なんて、そんなに簡単には育たない。資格と自信は、案外まったく別物なのだ。
「らしさ」を探して疲れてしまった
「自分らしくいたい」という気持ちが強すぎると、逆に疲れてしまう。無理に個性を出そうとしたり、逆に人と違うことばかりをしようとして、どこか空回りすることが多い。自分らしさは探すものじゃなくて、日々の中で少しずつにじみ出るものかもしれない。でもそれに気づく余裕すらない日もある。探すことに疲れて、「もうどうでもいいや」と諦めたくなる夜もある。
同業者のSNSが苦しくなるとき
SNSでの投稿は、華やかに見せようとするのが普通だ。でも、毎日それを目にしていると、なんだか自分がとてもダメな存在に思えてくる。「おしゃれなオフィスで面談中」とか「セミナー講師やってます」とか、自分には無縁な世界に見えて、ただただ落ち込む。自分らしくなんて言ってる場合じゃない、って焦りばかりが募る。結局のところ、自分のペースを保つって、意識しないと難しいんだなと痛感する。
いいねや反応に左右される日常
「今日はこんな仕事しました」とSNSに投稿したところで、いいねが少なかったら意味がないように感じてしまう。まるで、自分の仕事が世の中に認められてないみたいで落ち込む。そうなると、本当にやりたいことよりも、ウケそうなことを優先してしまう。自分らしくあることと、他人に見られることのバランスって本当に難しい。バッティングセンターで、打球の速さばかりを気にしてフォームが崩れるあの感じに、少し似てる。
自分を偽らないと仕事が取れない不安
時には、少し盛ったプロフィールを書いたり、自分を「やれる風」に見せることもある。でも、それが仕事につながると「本当の自分じゃないのに…」と後ろめたくなる。この業界は信用が命。でもその信用を得るために、無理して演じている自分がいる。演じることに慣れすぎて、素の自分が何だったのか、ふとわからなくなる瞬間がある。「自分らしく」なんて言葉が、ただの飾りに思えるときがあるのだ。
元野球部のクセに最近バッターボックスにすら立てていない
高校時代、野球部でバッターボックスに立つのが好きだった。三振しても、ヘタクソでも、勝負している実感があった。でも今の自分は、なんとなく日々を流されて、バットを握ることすら怖くなっている。挑戦することがリスクに思えて、動けなくなっている。昔の自分に会えたら、きっとこう言われる。「お前、打席に立ってないじゃん」って。自分らしさなんて、その一歩を踏み出さなきゃ見えてこないのかもしれない。
人生の打席に立つ勇気がなくなっている
打席に立つ勇気って、若い頃は勢いでどうにかなった。でも今は違う。責任もあるし、失敗したら取り返しがつかないこともある。そんなことばかり考えて、気づいたら何もしない日々になってる。でも、それじゃ何も変わらない。自分らしさを語る前に、まずは一歩前に出てみる勇気が必要なのかもしれない。バットを握る手が震えても、打席に立ってみなきゃ、ヒットは打てない。そんな当たり前のことを、最近ようやく思い出してきた。