気づけば時間だけが進んでいた日々の正体
時間だけが過ぎていく感覚に名前をつけるなら
この数年、「気づけば今日も終わっていた」という日が続いている。朝起きて、仕事して、夜になって、なんとなくテレビを見て、寝る。それだけ。なにか新しいことをしたわけでもないのに、手帳のページだけがどんどん先へ進んでいく。ふと「この時間の感覚、なんなんだろう」と思った。忙しいようで空っぽ。充実しているようで、まったく手応えがない。これって、俺だけなんだろうか?
朝起きてから夜まで記憶が曖昧
朝、アラームに叩き起こされて、コーヒー飲んで、机に向かう。電話が鳴る、役所に書類を出す、登記の内容をチェック、印刷、ハンコ、メール返信…。気づけば昼、そして夕方。気づけば夜。だれかと会話したような、していないような。夕飯を食べたのかすら忘れてしまうことがある。記憶の残らない毎日。それはまるで、録画していたビデオの早送りみたいに感じる。
業務に追われているのに何もしてないような虚無
もちろん業務は山積みで、目の前の処理に手を動かしている。でも終わったあとに「今日は何を成し遂げたか」と聞かれると、言葉が出てこない。誰かの役に立ってる実感がある日もあるが、9割は「機械のように動いていただけ」のように感じる。それが積み重なると、自分の存在そのものが希薄に思えてくる。
充実感と忙しさは必ずしも比例しない
学生の頃、野球部で1日中汗だくになっていた時は、疲れていても「今日はやったな」と感じられた。でも今は、1日中忙しく働いていても、終わったあとに残るのは、むしろ「虚しさ」だ。忙しいからといって、満たされるわけじゃない。むしろ、自分の人生が他人の手続きのためにだけ進んでいるような錯覚すらある。
司法書士という仕事の性質が生む時間の錯覚
司法書士の仕事は“繰り返し”が多い。同じような登記、同じような手続き、同じような書類。法律や制度が多少変わっても、基本的な流れは変わらない。これが「変化がないまま時間だけが過ぎていく」という感覚を助長する。新しいことにチャレンジする余地も少なく、日常はどこまでも一定のリズムで繰り返される。
同じ書類に何度も向き合う日常
登記識別情報通知の印刷ミス、委任状の記載ミス、申請用総合ソフトのエラー。これらはどれも珍しいことではない。そしてそのたびに、同じ作業を何度もやり直す。変化がなく、成果が見えづらい。気づけば1時間が吹き飛び、何も残っていないような気持ちになる。努力が消えていく感覚は、じわじわと心を削る。
客観的な進捗と主観的な停滞感のズレ
周囲から見れば「今日もたくさん処理して偉いね」と言われることがある。でも自分の中では“進んだ”感じがしない。書類は進んでも、気持ちは置き去り。報酬をもらっても、何かを達成した手応えが薄い。これは自営業者特有の感覚かもしれない。サラリーマン時代にはなかった、「進んでいないような進み方」だ。
日々のリズムが単調なほど止まってる感覚が増す
朝が来て、コーヒーを飲んで、パソコンに向かい、書類を処理して、飯を食って、帰って寝る。このパターンが身体に染みつきすぎると、“1週間が1日に感じる”現象が起きる。月曜日と金曜日の違いがなくなると、人生にグラデーションが消える。それが「時間だけが進んでる」感覚の正体のひとつかもしれない。
忙しいのに心が置いていかれる理由
毎日、書類とにらめっこしていると、人間としての感情が少しずつ鈍っていく気がする。思えば最近、感動することが少なくなった。ドラマを観ても、ニュースを見ても、どこか他人事。司法書士という職業の特性上、“感情を切り離して冷静に処理する”クセが染みついてしまったのかもしれない。
感情の動きが少ない仕事の罠
感情を動かさないようにするのは、効率のため、トラブル防止のためには大事だ。でもそれが日常になると、人間としての柔らかさが失われる。泣かなくなったし、笑わなくなった。以前、友人と再会しても話が弾まず、「お前、なんか冷たくなったな」と言われてショックだった。自分が一番わかっていた。
相談者の人生と自分の人生を比べてしまう
ときどき、相続や売買の手続きを通じて、人の人生の転機に立ち会う。涙ぐみながら話す依頼者を見て、「この人はちゃんと生きてるな」と感じる瞬間がある。自分はどうだろうか。ただ作業をこなして、気づけばまた一日が終わっている。比べる必要はないと分かっていても、どこかで「羨ましい」と思ってしまう。
他人のドラマの裏方に徹し続けることの代償
司法書士は主役ではない。常に黒子であり、誰かの人生の背景で動く存在だ。それは誇るべきことだと思いつつも、「自分の物語はどこにあるのか」と空虚になる。まるで舞台の照明係が、誰にも拍手されることなく退場していくような感覚。裏方の仕事に生きがいを見出すのは、想像以上に難しい。
「時間を使っている」と思える瞬間はどこにあるのか
そんな日々の中でも、たまに「今日は時間をちゃんと使えた」と思える日がある。それは決して、売上が多かった日でも、案件を多く処理できた日でもない。むしろ、“自分の気持ちが動いた日”だ。ちょっとしたことで誰かに感謝されたり、自分が昔の自分とは違う選択をしていたり。そこに、小さな生きてる実感がある。
自分の中で意味のある行動の定義
たとえば「お客さんが安心してくれた」とか、「事務員さんが嬉しそうだった」とか。そんな小さな出来事が、自分の一日を意味あるものに変える。書類をこなすことだけが“仕事”じゃない。気持ちを動かす時間こそ、自分の人生を前に進める力になる。忘れてたけど、それに気づくだけでも少し救われる。
昼休みにした一人のキャッチボール
ある日、昼休みに誰もいない公園で、壁にボールを投げてキャッチすることをした。元野球部としては懐かしい感触で、なんだか妙に心が落ち着いた。あの瞬間だけは、時間が“生きてる”と感じられた。誰にも褒められない行動でも、自分にとって意味がある。それでいいじゃないかと思えた。
元野球部の自分が今も覚えてる心の動き
あの頃、白球を追いかけてたときは、時計の針なんて気にしたことなかった。ただ夢中になって、一球に全力を注いでいた。いまの自分にその感覚はあるだろうか。もしかしたら、もう一度その“夢中”を日常のどこかに取り戻すことが、止まっているような時間を再び前に動かすヒントなのかもしれない。