抹消依頼の女
その日、午後三時。事務所のドアが控えめに開き、一人の女性が入ってきた。白いブラウスにグレーのスカート、目元にわずかな影を感じさせる。名を告げることなく、机の前に立った彼女は、私に一通の封筒を差し出した。
「抹消登記をお願いしたいんです」——その声には揺らぎがあった。依頼自体は珍しいものではない。しかし、渡された委任状には不自然な点がいくつもあった。
私はその場で何も言わず、黙って書類を開いた。
午後三時の来訪者
委任状に記載された登記原因は「弁済による抵当権抹消」。ただし、金融機関名義のはずが、なぜか個人名義で設定されている。しかもその個人は、依頼人と同じ姓。
「ご主人ですか?」と訊ねると、彼女は小さく頷いた。そして、わずかに微笑みながら言った。「元です。元夫です」
私は背もたれに寄りかかりながら、心の中でため息をついた。
奇妙な委任状
印影は鮮明、書類の形式も一応整っている。ただ、それは「形式上は」問題ないというだけの話だ。司法書士は様式に潜む異常を見逃してはいけない。
依頼人が持参した委任状には、公証人の認証印があった。しかしそれが逆に、違和感を引き立てていた。まるで“誰かに見せるための完全さ”のようだった。
私は手元のメモ帳に小さく「演出」とだけ書いた。
登記簿の沈黙
オンラインで地番を検索し、登記簿を確認する。抵当権設定の内容、登記原因証明情報、そして公正証書番号——どれも辻褄は合っていた。
しかし、それが逆に不気味だった。あまりにも「綺麗」すぎる。実務において、ここまで整っているケースは滅多にない。
私は画面をじっと見つめながら、ぼそりとつぶやいた。「違和感はいつも、整いすぎた書類に宿る」
名義人と債務者のねじれ
設定当時の名義人は依頼人の元夫、債務者は彼女の弟。つまり、彼女の家族が金を借り、夫の名義で担保を提供したという構図だった。
そのまま離婚し、今になって抹消登記——おかしくはない。だが、私は「時期」と「動機」が気になった。
抹消が急がれる理由。それが、この謎の核心かもしれなかった。
サトウさんの疑念
「先生、これ——普通じゃないですよね?」と、サトウさんが声をかけてきた。すでに彼女は登記簿謄本と金融機関の抹消例とを突き合わせていた。
「融資契約書が添付されていないってのも、ちょっと妙です」
私は彼女の言葉に頷きながらも、まるで『キャッツアイ』の如く、消されたものの輪郭を炙り出そうとした。
消された過去
彼女の提出書類の中に、一枚だけ手書きのメモが挟まれていた。「もうこれでいい」「君に返す」——文字は走り書きで、だがその筆跡には迷いがなかった。
それはまるで、別れの言葉だった。
私はふと、昔テレビで見たサザエさんのエピソードを思い出した。マスオさんがこっそり会社を辞めていた回だ。黙って去る、というのは、男の下手な優しさなのかもしれない。
土地に残る痕跡
法務局で原本還付を確認し、あらためて彼女の持つ資料を確認する。設定時の登記原因証明情報には、確かに住所地が記されていた。
しかし、今その土地は空き家になっている。二人が一緒に暮らしていた痕跡は、すでにこの世から抹消されていた。
登記だけが、過去を記録していた。
元配偶者の存在
元夫の行方を調べるのは簡単ではなかった。職権でもなければ住所は追えない。だが、サトウさんがSNSから手がかりを見つけた。
元夫はすでに再婚していた。新しい家族のために、過去を清算しようとしているのだろうか。
——それとも、過去に取り憑かれた誰かが、彼を追っているのか。
やれやれの一手
「やれやれ、、、」
私は頭をかきながら、最後の書類を確認した。結局、登記としては成立してしまう。だが、気持ちがついていかない。
それでも司法書士は、記録に命を与える存在だ。私は静かに押印した。
古い登記と新しい秘密
依頼人の女性が帰ったあと、私は封筒の中に残されていたもう一通の手紙に気づいた。そこには短く「ありがとう」とだけ書かれていた。
まるで、彼女が最後の依頼を通じて、自分の心を整理しようとしていたかのようだった。
真実はきっと、書類には書かれていない。
権利証の裏側
数日後、サトウさんが言った。「先生、あの人、多分自分の名前で再登記はしないですよ」
「そうだろうな。もう、自分の名前をそこに残す意味がないんだろう」
人は、記録からも去ることができる。登記が残る限り、そこには誰かの人生がある。
別れの証明
抹消登記は受理された。書類上、彼女とその土地との関係は完全に消えた。
だが、そこには間違いなく、別れの言葉が込められていた。司法書士の目には、それが見えてしまうのだ。
事務所に戻ると、私は静かに書棚から抹消済みのファイルを取り出し、そっとそれを綴じた。
公正証書に記された意図
その証書に、「将来トラブルを避けるために」と書かれていた一文が気になっていた。——本当にそれだけだろうか?
何かを終わらせるというのは、同時に何かを始めることでもある。
公証人の印が、まるで終止符のように私の心に残った。
涙の価格
登記費用は、報酬規程に従って計算された。しかし、それを彼女は「多すぎます」と言って封筒を置いていった。
私はそのまま、封筒に手を伸ばさず、ただ頷いた。
別れの代償は、登記簿では測れない。
抹消と真実の間で
帰り際、サトウさんがぽつりと言った。「私なら、ちゃんと直接話しますけどね」
私は返す。「お前がサザエさんなら、あの人はきっと波平だよ。無口で、古風で、どこか不器用でな」
そして私は窓の外を見ながら、ひとりごちた。「やれやれ、、、またひとつ、抹消された想いに触れちまったよ」
サインの意味
書類の最後のページに書かれたサイン。まるで儀式のような、別れの証明だった。
そこに書かれた文字が、どこか微笑んでいるように見えた。
私は深く息を吐き、次の登記簿を手に取った。
静かに閉じる登記簿
私はファイルを閉じ、ロッカーに戻した。そして、机に残る紅茶の香りとともに、女性の面影を思い出した。
別れを記録するのが仕事だなんて、なんとも因果な職業だ。
それでも、私は明日もまた、登記簿に向き合う。