届かなかった委任状

届かなかった委任状

朝の事務所に届いた一通の封筒

誰の手によるものか不明な書類

朝のコーヒーも飲み終える前に、ポストに白い封筒が差し込まれていた。差出人の名前は書かれていない。消印もない。つまり、直接誰かが投函したということになる。

封を開けて中を確認すると、委任状の雛形が一枚、手書きのメモが一枚だけ入っていた。だが、どちらにも署名も押印もなく、依頼者の情報も書かれていない。書類としては無効だ。

普通なら迷惑郵便として破棄するが、なぜか妙な既視感が胸をざわつかせた。

封筒に記された妙な文字列

宛名欄には、「司法書士事務所 シンドウ様」とだけ。だが、その“様”の字だけ、異様に濃く筆圧が強い。これを書いた者が何か強い感情を抱いていたのは明らかだった。

「こういうの、だいたいろくなことになりませんよ」と、サトウさんが冷たく言った。まったくその通りだ。

ただの悪戯か、それとも何かの予告か。いやな胸騒ぎだけが残った。

依頼人は現れなかった

指定された時間に来ない理由

メモには「10時に伺います」とだけ書かれていたが、その時間になっても誰も現れなかった。電話番号も記載なし。もちろんメールもなし。

私は事務所の時計を見上げながら、溜め息をついた。昨日の夜更かしがたたって、眠気が襲ってくる。こんな無駄な時間のために起きたのかと思うと、無性に腹立たしい。

「結局、ただの迷惑者か」そう思った瞬間、机の隅にあった過去のファイルが目に留まった。

電話番号は使われていなかった

なんとなく気になって、過去の登記案件ファイルをめくってみる。すると、六年前に似たような名前の依頼者がいたことを思い出す。

記載された電話番号にかけてみたが、「この電話番号は現在使われておりません」という自動音声が返ってくるだけだった。

あの時の彼女は、あれからどうしたのだろう。まさか、また依頼しに来るつもりだったのか。

過去の登記と一致する住所

六年前の贈与登記に潜む矛盾

その登記簿を見返してみると、確かに彼女の名前が書かれていた。だが、住所欄に微妙な書き間違いがあったのを、今さらながらに見つけてしまう。

「やれやれ、、、またか」私は頭を抱えた。こういう見逃しが、後々になって騒動の種になる。野球部時代から変わらないこの“うっかり癖”には、自分でもうんざりしている。

その住所の土地は、今や別の男性の名義になっていた。彼女が贈与した先の名前だ。

ある女性の名前の重複

だが、驚くことに、その新しい名義人の婚姻欄には、同姓同名の別の女性の名前が記されていた。つまり、彼女は贈与後に捨てられ、男は同じ名前の別の女性と婚姻していたのだ。

この偶然が重なることなどあるだろうか。いや、偶然ではない。名前が同じ女性を選んだ理由があるはずだ。

過去の感情を断ち切れなかった男が、同じ名前に固執していたのだとすれば、それは執着というよりも恐怖だ。

サトウさんの冷静な一言

名前は同じでも中身が違う

「女の名前だけじゃ人は選べませんよ」サトウさんがパソコンを叩きながら言った。

彼女なりの分析なのだろう。感情を交えずに淡々と言葉を吐くその姿勢は、まるで灰原哀だ。

だがその言葉に、私はようやく核心へと辿り着いた気がした。

そこに感情がなかったことに気づく

彼女は、最初から感情のない贈与をしたのかもしれない。義務か、あるいは計画か。だから委任状にも本音は書けなかった。

いや、逆かもしれない。感情があったからこそ、名前を見て狂い、同じ名前に執着した。書類には出せない感情がある。

届かなかったのは、書類ではなく、気持ちだったのだ。

私は彼女を覚えていた

一度だけ来た女性の姿

確かに一度だけ、事務所に来た女性がいた。大人しげで、髪をまとめ、目立たない格好をしていたが、瞳には何か刺さるような鋭さがあった。

話は短く、すぐに用件だけを済ませて帰ったが、忘れられない印象を残した。

あれが彼女だったのだろうか。もはや確認する術はない。

登記申請書の余白に書かれた言葉

法的には無意味でも意味を持つ

ふと、再びあの封筒に戻ると、委任状の余白に小さな文字が見えた。「彼は私を選ばなかった」

署名はない。ただ、それだけが鉛筆で書かれていた。法律的には意味を持たないが、それはまぎれもない“証言”だった。

この書類が届いた理由が、今になってようやく理解できた。

サトウさんの推理が切り裂く

動機は愛情ではなく不動産

「恋愛が動機だと思ってたら、登記は見抜けません」サトウさんがバッサリ言った。

確かに、彼が同名の別人に名義変更したのは、所有権移転をスムーズにするためだった。印鑑証明を再取得せずに済むからだ。

だからこそ、彼女は怒った。想いを利用され、都合の良いように“同じ名前”を選ばれた。

静かに結末を迎えた登記簿

表に出ない裏の所有者

最終的に、名義人は変わらず、登記は有効なままだ。だが、この登記簿の裏には、一人の女の痛みが刻まれている。

誰もそれを読むことはない。ただ、司法書士だけが気づいていた。

書類は、真実をすべて語るとは限らない。だが沈黙の余白にこそ、本音がにじむ。

シンドウは静かに紅茶をすすった

「登記も人生も、書かなきゃ伝わらない」

昼を過ぎ、ようやく来所した別の依頼人の書類を前に、私は一息ついた。

サトウさんはすでに次の予約を処理していて、私はようやく静かな時間を取り戻す。

「やれやれ、、、今夜はもう少し早く寝よう」心の中でそうつぶやきながら、冷めた紅茶を飲み干した。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓